象の牙・冒頭




 あれは四月の中旬のことだ。十ヶ月ぐらい前のことになるのかな。放課後になって、わたしは校舎の裏を歩いていたんだ。入学以来、部活動には縁がない。どうしてそんな場所にいたのかはもう思い出せないけど、おそらくゴミ捨てだろうか。
 春のぽかぽかした陽気と風に当てられ、わたしはそれなりに上機嫌だった。テニス部が壁に向かってスマッシュを放つ音や、校舎のあちこちから喧騒が届く道の上である。どこか開け放されたトイレの扉から微かに異臭が混じっていたけれど、わたしは嗅がなかったことにした。
 ともかくそこで、二人の女の子に出会ったんだ。片方はもじゃもじゃの、散らかしたような髪の毛の持ち主。ぶっといダッカールとか造花とかを挿しまくっていた。軽く二十種類はある。髪型を保つためなのか、それとも髪型が髪型だからつい挿してしまうのかは判別できない。見るからに粗雑そうで、事実適当だった。というかわたしのクラス内ではそれなりに有名人だ。それもそうだろう、留年しているというだけで人の輪から距離が生まれてしまうのだから。こちらからも関わりたくないと思っていたけれど、こうなってしまっては四の五のいってられない。
 そいつは松花江(しょうかこう)芽依(めい)という名前。そんな有名人だから、できれば別々のクラスがよかったんだけど、運命とは実に残酷だった。
 彼女はもう一人の女の子に絡んでいる。こっちはおとなしめだ。比較的におとなしめ、じゃなくて、絶対的におとなしめな女の子。髪は艶々の黒をしていた。まとめないその長髪を一心不乱、可哀想に振り回しながら松花江に嘆願していた。返して、と。
 剣呑な雰囲気なのだ。思わず足を止めて、しばらく息を飲む。
 名も知れない女の子には見覚えがあった。どこかで見たっけと思考を巡らすうち、二年生であることを示すスリッパを履いていることに気付いて、こっちも同じクラスにいることに思い至った。……ぶん、ぶんじゃない、ふみ……文衛(ふみのえ)、なんだったっけ。文衛、伊ナントカっていう名前だったと思う。教室の端っこで黙々と本を読んでいるタイプだ。実際に端にいるわけじゃないけど。
 わたしの記憶の中で彼女は眼鏡っ娘だった。だけどそれはいま、髪を振り回している彼女の姿と一致しない。真っ赤なセルフレームは松花江に取り上げられ、弄ばれていたのだ。
 背は圧倒的に文衛のほうが高かったけれど、おどおどしっぱなしの彼女が近づけるわけもなく、ただただ返して返してとお願いするばかり。松花江はあざ笑うだけ。
 わたしは両手をぎりりと結んだ。職員室へ取って返そうとか、誰か知人を呼んでこようとか、そういう考えはなかった。ヒーローは常に孤独なのだ。愛と勇気だけを道連れにひとり。幼い頃に見た特撮番組の主人公さん。それがわたしの処世術だった。
次いで腹に力を篭めると、よくとおるよう高らかに宣言してやった。「やめなよ」
 ぽかんとした顔で、松花江と文衛がこちらを見やった。ちょっと文衛、あんたまでそんな顔するんじゃない。いまから助けてあげるんじゃないか。
「なんじゃあ、ヌシには関係あるまい」
 芝居がかったような松花江の声。
「関係ある」
「ないのう」
「クラスメイトだもの」
「そうだっけ?」
「いいから早く、眼鏡返してあげて」
「眼鏡返す、なんのことかのう。……いさきちや、これはじゃれ合ってるだけじゃろ」
 松花江が話を振ると、文衛はぎこちなく頷いた。
「……え、う、うん」
 文衛は『自分なんかに構わないでよう』とでもいいたげな眼をしていた。
 わたしは文衛を見ずに、再び松花江へ話を振る。
「文衛伊ナントカさん困ってるじゃない。そんなじゃれ合いなんか、あるもんか」
「文衛伊左紀(いさき)ちゃん。クラスメイトの名前ぐらい覚えてやれ」
 シラを切れるとでも思ってるのか、松花江はすっとぼけたように受け答えをした。わたしは段々いらいらしてきて、もうこれは必殺技を使うしかないと判断した。
 いわく、予備動作なしに跳びかかって松花江の顔を蹴る。そして返す刀で、ちょっと手加減しつつ文衛の横顔も蹴る。哀れ文衛に向かった因縁は無事わたしへと矛先を変え、両成敗されることで文衛が余計にからかわれることもないだろう。悪意は全てわたしが受け止めてやる。それがヒーローらしさに繋がるのである。
 そして次の瞬間、決意のわたしのつま先が、いままさに松花江の顔を捉えようとしたとき……。反応できないはずの彼女は、いきなり地面にひれ伏しこういったのだ。
「うわー、まいったー。いたい、かなわなんだー。ごめんよー、ゆるしてくれー」
 松花江はそのまま文衛にも謝り、眼鏡を返してあげた。視力が元に戻った文衛は喜び、地面に頬を擦り付ける松花江に頭を上げるようにいった。松花江は潔くそれに応じると次はわたしを見つめる。つぶらな瞳だった。すると二人して、口々にいいやがった。
「ヌシにはびっくり、いまどき珍しく勇敢じゃのう。いさきちともども、これから一年仲良くしよう。あたしのことは芽依と呼んでくれ」
「あ、じゃあぼくも伊左紀でいいよ。よろしくね釜木(かまき)ちゃん」
「……初海(うみ)でいい」
 嘘のような死闘の末、わたし達は仲良くなれたのである。後から知ったのだが、本当にじゃれ合っているだけだったらしい。わかりにくすぎる。
 そしてわたしは松花江芽依を飛び越えて着地したときに足を捻挫していた。全治二週間だった。怪我の程度は、いまでも忘れない。忘れてたまるか。


    
 一


「だめでしょ芽依ちゃん。また授業中に寝て」
 小学校の先生みたいな口調で伊左紀がいう。向かった先は芽依。だけど彼女はいつも通り、靴を履き替えつつのらりくらりとかわすのだ。もじゃもじゃの髪が、中に誰かいるみたいに揺れている。背が低くて肌は日焼けしたみたいに浅黒い。眼はどこか眠たげで、時折高いところから見下ろしているように鋭くなる。けれど四月のあの頃とは違って、その実が懐けば意外といいやつということを、もうちゃんと知っている。
「あたしゃ夜行性なのさ」
「あのねえ……」
 伊左紀はそれでも何かいいかけるけど、結局言葉が浮かばなかったのか困った顔でわたしを見てくる。しょうがない。もう何度となく交わしたやりとりだ。三人ともそろそろ語彙が尽きかけている。なにせ芽依の授業態度、ひいては進級に対する問題はけっこうな頻度で話題に上る。いまみたいに、三人揃っての学校からの帰り道では特にそうだ。
 まだ太陽は高いものの、風が吹くと少し涼しい。背後にそびえる校舎が、ビル風のように強い一陣を起こしているからだ。校舎の窓を見上げると、紺のワンピースの上に同色のボレロを羽織った女子生徒が走って行った。
 私立北沢陵(きたたくりょう)高等学校は、甲石台という町にある。町には谷(というか市街地)を挟み沢陵という別の高校もある。あっちは公立だ。甲石台に住んでいて、ある一定以上の成績があって、……そして大して将来に目的もない中学生達は、当然のように沢陵高校の普通科を志望する。わたしもそうした。で、落ちた。一倍を切っていた倍率なのに落ちちゃった。しょうがないから、滑り止めで受けていた北沢陵に進学することになったのだ。これが二年前。我ながらよくグレなかったと思う。若いながらに絶望し、かなりやる気をなくしていたから。
 わたし達はもう、二年生も終盤を迎えている。あと数ヶ月で最終学年だ。次の進学とか、そういうことも考えないといけない。であるからして伊左紀が芽依に構いたがるのもわかる。なにせわたしが自発的に頑張るような時期だ。……もう二度と落ちるもんかって。
 それにしても。
「だーかーらー、なにもいさきちが気にすることはないんじゃて。あたしの二学期の成績を知っとろう?」
「……通知表って、一が最低だと思ってた」
 かっかっか、と芽依が笑う。この娘は、おそらく二年続けてやる気だ。
「いまさら頑張ってもしょうがないのさ。あたしはもっかい、二年生をやり直すとするよ」
「でも、そんなのだめだよ」
「何がかのう」
「ちゃんと勉強して……いや勉強以前の問題じゃないかな。芽依ちゃんはいったい何考えてるのよ」
 伊左紀の声が少しだけ荒っぽくなってきた。絹のような柔肌もほんのり染まっている。わたしは思案するのをやめて、隣から声をかける。
「伊左紀、その辺にしよ」
「だって、初海ちゃん」
 溜め息を吐いた。たぶんこれは、伊左紀の代わりに吐いた分。
「芽依には留年の恐ろしさがまだわかってないのさ」
「そんな、今年でさんざん経験してるのに……」
 躊躇いがちに伊左紀は芽依に一瞥をくれた。見られたはずの彼女は、それでも口笛をいままさに吹かんと唇を尖らしている。
「あたしはあたしの道を進んどるのさ」
 わたし達三人でしばらくつるんでいれば嫌でも噂を耳にする。彼女……松花江芽依という女子が、留年し続けているという話。それは今年に始まったことではなく、もう何度も二年生をやっているという。もちろん、わたしは端から信じてない。芽依のことをよく知らないから邪険にできるのだろう。だいたいそうじゃないと、彼女の青春真っ只中な見た目と一致しない。どう見ても未成年だ。それに留年回数が聞く度にまちまちなのも、怪しむにはじゅうぶんだった。学校の七不思議の一つに仲間入りしている時点で、鼻で笑ってやるべきだろう。
 ただこの話、風の噂どころか、一度だけ本人の口から聞かされたもある。ファーストフード店の中で、ポテトを頬張りながら自信満々に言い放っていた。「あたしゃここが気に入ったのさ」と。このときの留年数は、十を超えた辺りから数えていない、だそうだ。ここが大学なら、とっくに放り出されていてもおかしくはない。だからそんな芽依の強がりを聞くと、わたしはなんだか寂しくなってくる。留年は去年の一回だけのはずだ。芽依も周りもどうしてそこまでしなければならないのか、はっきりいって意味がわからない。
 で、現在当の本人はというと、髪に挿した造花を右手でくるくると回しながら、あくびしている。……出会った頃から、変わってない髪型。もじゃもじゃのクセッ毛で、ありとあらゆる髪飾りで飾り立てたそこ。お祭りじゃあるまいし。
「いまはあたしよりも自分達の心配をしたほうがいいんじゃないかえ。特にうみゅや、ここで成績を落とすと、また受験に失敗しちまうぞ」
「ぐっ……」
 うみゅはわたしのあだ名だ……、痛いところを突いてくる。
「ほれほれ、何も言い返さんのか? ん?」
「ふんだ。そっちこそまた一年、せいぜい頑張りたまえ」
 わたしは芽依っぽい、老けた口調でいい返してやった。だけどわたしが期待していたような悪戯っぽい笑みではなく、少し寂しげに眼を細めた表情しか返らなかった。
「いわれなくともそうするのさ」
 ええい、よくわからん。これじゃわたしは何もいえん。
 おまけに伊左紀は伊左紀で、転々と変わる状況におろおろするばかり。……参ったな。三学期になって、進級を意識する度にこうなってしまう。
 もう、芽依が授業に身を入れないのがよくないんだ。あんたのせいでわたしだって身が入らないしさあ。そういってやりたいけど、こいつが聞かないのは眼に見えている。
「……もういい。伊左紀、行こっ」
「あっ、ちょっと。
 ……ば、ばいばい、芽依ちゃん」
 わたしは伊左紀の腕をむんずと掴んで歩き出す。どうせここで芽依とは別れる交差点なのである。
 わたしの背後で、芽依の声がした。
「うむ。また明日な」
 そうやって別れた後で、抗議するみたいに伊左紀が耳元で叫んだ。
「もう。初海ちゃんも芽依ちゃんも三学期入ってからおかしいよ」
「おかしいといえば、わたしに対する芽依のあだ名もおかしい。うみゅ……って、こう、いいにくくない?」
「確かにいいづらい……。ぼくもそれは一年間ずっといいたくて我慢してたよ」
「でしょ」
 伊左紀の追及をはぐらかすのは簡単だ。身近な人物の話題を挙げればいい。たとえばわたし自身とか。伊左紀はどうも、他人への興味が強すぎるきらいがあるみたい。眼鏡の奥に宿った光は、それはそれは暗いもので、覗き込んだ自分の姿が映るのだ。たぶん伊左紀も、その映像を見ているんだと思う。
 ただ今日は違った。
「って、うみゅ……あ、いいにくい……。初海ちゃんのことじゃないの」
「わたしはどうでもいいというのね」
「うん」
 珍しく取り付く島もない。
「芽依ちゃん、このままじゃまた二年生だよ。ぼく達がいなくなったら、一人ぼっちに逆戻りじゃない」
 否定はしなかった。事実、教室に生まれる様々なグループのうち、わたし達三人だけは常に不変だった。時々喧嘩もしたけれど、その程度で壊れたりしない。わたしはそう思ってる。伊左紀もそう思ってるからこんな言葉が出ているはず。
 そして……芽依はどうなんだろう。考えれば考える程、項垂れてくる。
「しょうがないよ。時々あいつのいる教室に遊びに行ってあげようじゃない」
「でも芽依ちゃん、ぼく達の付き合いは一年間だけっていってたよ」
「……なにそれ」
 わたしは思わず伊左紀の顔を見返した。再び困惑の眼差しで、彼女はいってくる。あまり女の子らしい特徴のない中性的な顔立ち。微かに鼓動が早まった。
「えっと、ほら……初海ちゃんとはじめて会った日。校舎裏で……」
 伊左紀の言葉で連想ゲームのように、わたしはあのときのことを思い出した。そうだ、足の捻挫だ。二週間。
「あの後芽依ちゃん、いってたでしょ。一年間の短い間だけよろしくのう、って」
「……よく覚えてるね」
「日記付けてるから」
 微妙にズレた答えだ。伊左紀らしい。
「ふうん」
 わたしは興味のないふりをして鼻を鳴らした。ヒーローは常に孤独。けれど芽依はヒーローじゃない。
 そして少しだけ、首を上に向けた。赤い夕日が容赦なく顔を差す。思わず眼を細める。
「明日、先生にいってみようか。いい加減にしないと学校側もうんざりだろうし。二留なんてされたら学校の名前にも傷が付くでしょ」
 それを聞いてから、伊左紀はちょっと間を置いて返事をした。
「……え、あ、う、うん!」
 伊左紀は嬉しそうだけど、わたしは怒っている。……一年限りの付き合いとか、そういうのゴメンだから。手に持つスクールバッグを握り締めた。

 

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