誕生




「誕生」

 昼過ぎになりました。この時間にもなると、流石にお嬢様もお目覚めになります。本来ならばお付のメイドとして、規則正しい規律ある生活を送っていただく為に、もっと早くに起こすべきなのかもしれません。
 しかしそれもこれも三歳年下のお嬢様のご要望。春眠暁を覚えず、というやつでしたか。季節を考えると、冬眠と表す方がしっくりきますが。
 なによりこの館の食料事情を考えると、お嬢様に一食削って頂けるのは助かります。

 部屋に向かう途中の廊下で、案の定起き出してきたお嬢様と鉢合わせになりました。
 水玉模様の淡い緑色で揃えたパジャマのままです。着崩しているので右肩は丸見え、滑らかな金髪はことごとくあらぬ方向へ、と情けない有様でした。それでも顔色を変えずに挨拶します。
「おはようございます。お嬢様」
「おはようアカリ、ところで今は何時かしら」
「十二時十二分でございます」
「そう」
 年相応のあどけなさを臭わせつつ左目をごしごし、覚束ない足取りで来た道を引き返して行きます。これだけで十分でした。もう昼だからおなかがすいたんだよ……と、そういう事でしょう。
 あまり待たせる訳にもいかないので、私も急いで館のキッチンへと足を向けます
。  いつも通りの昼です。

 スープの入った鍋をじっくり弱火に掛けていると、隣り合った食堂の扉が閉まる音がしました。死角になっているので姿は確認できませんが、お嬢様でしょう。館の住人は三人ですので、間違いようがありません。だんだんとキッチンに温められたスープの匂いが広がっていきます。コーンスープです。目には見えませんが、透き通った煙となって奥行きある食堂の隅々まで届いているでしょう。
 昼食はこれと、作り置きのクロワッサンです。それらだけではあまりにもバランスが悪いので、他にも……歯ごたえのあるサラダや、新鮮なハムエッグなども用意したいところなのですが、出してもきっとお嬢様は手を付けてくれません。少食だからと本人は仰っています。
 キッチンに響くのは換気扇がうるさく回る音のみ。外からは何も聞こえてきません。小窓を覗けば今日も晴天なので、小鳥のさえずりが聞こえても良いのですが。鍋を大きくかき混ぜながら、ついぼーっとしてしまいます。
「ねーアカリーまだかしらーごはんーねぇー」
 待ちきれなくなったお嬢様が、広い食堂からこちらに顔を出してきました。
 隙だらけの寝巻き姿とは打って変わり、白の長袖ブラウスに映える赤いタイ。黒いプリーツスカート、二つに縛った長い髪と、正に風格を纏って立っています。とはいえお行儀が悪いという問題に変わりはありません。
「もうすぐできますから、席にお戻り下さい」
「嫌よー、暇だもの。私だってたまには鍋の中身やスープや流動体をかき混ぜたりしたいわ」
 スープをかき混ぜるのは決して暇潰しではないのですが、お嬢様の目は頑として譲りそうにありません。寝起きの不機嫌というやつでしょうか。
「仕方ありませんね。ではこちらのおたまをお使いください」
 言って私は握っていたステンレス製のおたまから手を離します。
「例のスプーンの親玉ね。腕が鳴るわ。
 ……ちょっと、届かないじゃない」
 年季の入ったコンロ台がお嬢様とどんぐりの背比べができる高さです。そこに置いてある大型のスープ鍋と来れば、お嬢様の手が届かないのも無理はありません。それでも懸命にぴょんぴょん手を伸ばすお嬢様は大変可愛らしいものでした。
 とはいえあるのは火にかけた鍋、危な気ないと言えば嘘になります。
「ほらほらお嬢様、早くかき混ぜないと焦げ付いちゃいますよ」
 そう囃しつつも、室の隅に置いてある踏み台をお持ちします。いつからあるのか、かつてはビール瓶を剣山のように刺していた黄色のボトルクレートです。私やお嬢様がしょっちゅう踏みまくるので、中央部分が凹んでいるのがよく分かります。
 お嬢様はと言えば、このままだと煮え湯を飲まされることになるわ、と呟いています。
「お嬢様、スープですからいずれにしても煮え湯は飲まないといけませんよ」
「それもそうね。ところで、このスープけっこう温まってるんじゃないの?」
 言われてみれば、白い煙が目に見える勢いで立ち上っています。それどころか気泡まで立つ有様。視線をわずか下に落とせば、いつの間にか強火になっている火とはしゃぐお嬢様がありました。
「わあ、本当にぼこぼこって音がするのね!」


「アカリ、こうも熱いと手が止まるわ」
「お嬢様が強火にするからです」
「弱火でちんたらやってるからよ」
 スープカップに息を吹きかけて冷まします。私も相席しての昼食ですが、スープがあまりにも熱いのでお互い食が進みません。メイドとその主が同席するなど問題があるように思われますが、これにはやんごとなき事情が絡んでいるのです。
「で、今日の晩ごはんは何なの?」
 話題を逸らしたかったのか、妙なことを訊いてきました。
「まだ昼ごはんの途中ですよ」
「ぐ……今から気になってるの」
「食いしん坊ですわ」
「小食よ!」
 食いしん坊娘はさておき、今日の晩御飯について考えます。キッチン内には冷蔵庫などという無粋なものは置いてありませんから、食材はいつものように貯蔵庫から調達してこないといけません。問題はそこでした。実は昨日の夕食で空になったばかりです。献立云々以前に、まずは買出しに行かなければなりません。
 程よく冷めたスープを飲みながら、お嬢様はこちらを訝しげに見てきます。少々心苦しいですが、はっきりとその旨を告げました。
 昨日のうちに報告しておきなさいよ等、文句を言われるかと身構えていた私でしたが、
「そう」
 返事はあっけないものでした。

 たとえ小額であっても、私に金銭を扱う行動は許されていません。この館の三番目の住人(とは言っても一番の古株ですが)、執事のお爺さんにオコトワリを入れる必要があるのです。そんなわけで、昼食を片付けてからその方に交渉しに行きました。
 お爺さんはたいてい「執事室」なる部屋に立て篭もっています。前から読んでもシツ・ジ・シツ、後ろから読んでもシツ・ジ・シツ。茶目っ気のある名前です。
 執事室のドアをノックしてから一呼吸置きます。返事がありません。もう一度ノックして中に呼びかけてみます。まだ応答はありません。三度目のノックにして、間が空いてからようやく、どうぞ、としゃがれた声が聞こえてきました。
 執事室の内装は実に簡素なもので、お爺さんが書類を広げる木製デスク、それの椅子、昼間から閉じられたままの無地かつクリーム色をしたカーテン、あとは本がほとんど入っていない本棚しかありません。でも実はそれがかえってお爺さんの有能さを示してもいるのです。耳は遠いですが。
「どうしました?」
 事務作業を中断して尋ねてきます。
「食べ物の買出しに行かなくてはなりませんので、そのお金を」
「もう尽きてしまいましたか。ではこれを。足りてますかな?」
 開けたデスクの引き出しから紙幣をちらりともしないで掴むと、まるごと数えずに私に手渡してくれました。数える必要がないからです。流通している中で最低額のものを一枚だけ。これが買い物に使える全資金でした。
 あまり綺麗ではないお札を丁寧に畳んで、懐へとしまいます。
 私の所作を見ていた執事さんは、それから申し訳なさそうに言葉を付け足しました。
「いつもすみませんね」
「これだけあれば十分ですよ。メイドの腕というものをお見せしましょう!」
 小さくガッツポーズを作ってみせます。しかし見せた相手は、不気味に顔を歪ませました。後から気付いたのですが、ただの苦笑いだったのでした。
 ともあれお金も頂きましたし、早々にお買い物へ行きたいところ。握った拳をほどき、一礼してからそそくさと退室します。
「あ、ちょっと」
 できませんでした。執事さんが思いついた風に私を呼び止めたのです。何事かと訝しがっていると、彼はこちらに向けて手をひらひらと振っています。こっちへ来なさいのジェスチャーでしょう。
「どうしました?」
「お嬢様に渡すものがあったのを思い出しましてな。買い物に行く前に、渡しておいて下さい」
 はぁ、と答えるしかない私の手に、執事さんは冷たくて硬いものを握らせました。見れば鍵のようです。申し訳なさそうに貼られた白のラベルには、消え入りかけた文字で「映写室」と書かれていました。
 映写室と言えば、旦那様が趣味で集めていた古いフィルムが置かれている部屋です。ずっと鍵がかかってあったせいで、私は一度も入ったことはありませんが。
「映写室ですね」
「そうです」
「……えっと、どうしてこれをお嬢様に?」
「お嬢様ももう大きくなられました。なに、旦那様を知る良い機会ですよ」
 確かにお嬢様は大きくなりましたが、そういうものなのでしょうか。私は腑に落ちない疑問を抱きましたが、かと言って追及できる訳でもありません。
 恭しく鍵をメイド服のポケットに入れてから、
「分かりました。お任せください」
 表情を微笑に戻して、今度こそ退室します。

「あ、ちょっと」
「……どうしました」
「今晩のおかずは何ですかな?」

 執事室からようやく出られた私は、自分の部屋から買い物用のバッグを取ってきました。くすんだ茶色の、さんざん使い古した一品です。これがないと買い物に行けません、とまで言うのはさすがに言い過ぎかもしれません。
 あとは館内をほっつき歩いているお嬢様を見つけるだけです。
 一番にお嬢様の部屋に行ってみましたが、そこにはおりませんでした。加えてドアがだらしなく開きっぱなしになっていたのでした。部屋で静かにしていないのは、きっと良からぬ行為を思いついたからでしょう。
 お嬢様、お嬢様と呼んでしばらく廊下を探し回っていると、ちょうど二階の窓辺に佇んでいた彼女がこちらに気付きました。
 悪びれる様子もなく、お嬢様はこちらに向き直って答えます。
「そんなに大声出さなくても気付くわよ」
「館は広いですから」
 お嬢様の悪だくみはひとまず放っておいて、先程の鍵を片付けます。ポケットから出した銀色に光るそれは、外から差す太陽を受けて一際煌いていました。表情をつけずに、執事から預かってまいりました、とだけ伝えます。
 反射した光が入ったのか目を細めたお嬢様でしたが、私から奪い取るかのごとく手を伸ばすと、鍵を食い入るように眺めていました。
「これは……映写室ね」
「はい」
「映写室よね」
「そうです」
 念を押すように鍵の使うべき場所を訊いてきます。
「あの爺さん、どうして今さら……」
 そして最後にこう呟きました。肩にかかったツインテールがぞわぞわと揺れます。私ですら鍵には少々不審を感じたのですから、お嬢様であればなおさらでしょう。
 私が励ましの言葉をかけるべきかと口を開きあぐねていると、お嬢様は鍵から手を離し、こちらをもう一度見上げました。
「分かった。これは映写室へ行けって言っているのよね。
 アカリ、買い物から帰ったあとでいいから、ポップコーン用意できるかしら」
「か、構いませんが、よりによってポップコーンが出てくるんですか?」
 自嘲するように口を吊り上げてお嬢様は答えます。
「フィルムと言ったらポップコーンでしょう
 じゃあ、よろしくね」
 お嬢様は言い残すと、気品のある足取りで封印された部屋へと向かっていきました。ポップコーンを用意するのは良いのですが、これでは食料に使える予算が減ってしまいます。執事さんにもう一度お金をせびりに行きましょうか。
 などと考えしばし棒立ちになっていた私ですが、使命を見つけると次の動作に取り掛かりました。
 お嬢様が窓拭きに使っていたボロ雑巾を水の入ったバケツに突っ込み、下階にある洗い場へと向かいます。こんなことならバッグを取りに行くのは後にすべきでした。
 バケツは片手で持つには重く、階段を降りるたびに水が跳ねて私にかかってきます。

 かくしてバッグと服に淡い水玉模様を作りながらも、濁ったバケツの水は下水管に吸い込まれていきました。館内でするべき仕事は一通り片付けましたので、これで晴れて買い物に出かけられます。
 玄関まで軽い足取りで歩みを進めます。今日はどれが安かったかしら。ずっと今晩の献立について聞かれましたが、実はいまになってもまだ決まっていません。店に入ってから気まぐれと思いつきで決める……これも立派なメイドの腕だからです。そうなのです。
 大理石と壁紙で軽いブラウンに統一された玄関ホール。その気になればそれこそ何十人という靴を置ける広さがありますが、今は三足しかありません。私とお嬢様の小さめの靴、それから執事さんの革靴だけ。見てくれこそ洋館の我が家ですが、外履きと室内履きを使い分けている辺りはきっちり和風といえるところでしょうか。枯草色のスリッパをラックにしまい、自分の靴に履き替えます。
「では、行って参ります」
 返事も聞かずにドアに手をかけました。むしろ応答が聞こえてきたら怖いので。

 館からたっぷり二十分はかけて歩き、ようやく町の端へと辿り着きました。来た道を振り返ってみれば、軒並み禿げてしまった針葉樹と薄い雲が満遍なく散らばる灰色の空が広がっています。天を突く程そびえ立つ山もなく、この季節に青々と茂る草木もなく、ただただ寒々しい色で塗られた風景です。いくら我が家が大きい館とはいえ、ここまで来るとてっぺんに生息する風見鶏すら視界に入りません。あるいは錆にまみれた鶏冠だけが見えているかもしれません。が、禿木と同じ、褐色の冠は周囲に飲み込まれて境がつかなくなっています。しかしながら地平線のあんなにも遠くが見渡せるのは、曇ったせいで柔らかい日光が射し込み、寒冷の空気が澄んでいるからでしょう。息を吸うと、からっぽの肺に容赦ない冷気が流れ込んで来ます。着ている服が厚手なのでさほど寒くはありません。但し指先は少々冷えるので、手を持ち上げて丸めると生温い吐息で紛らわせます。そのうち上空では三羽の鳥が太陽の方へ飛んでいきました。種類までは区別がつきませんでしたが、息を吐きつつかれらを見送ると、また何も無い木々だけが並んだ寒空の下が戻ってきました。
 私はこの場所のこの景色が今でも好きです。
 落ち葉を乗せて、森のほうからぴゅうと冬の風が吹きました。流されるようにして、私も町へ向かって足に力を込めます。

「お買い上げありがとうございましたー」
 お会計九九七円。なんとかお釣りを一桁単位に抑えられました。鶏むね肉百グラムがまさかあそこまで安くなるなんて……ブロイラーの尊い犠牲に目頭が熱くなります。
 野菜も日持ちするものを買えましたし、これは本当に良い買い物だったと言えるでしょう。当分は外出しなくてすみます。
 外出に関して言えば、私の着ている服が紛れもないメイド服ですので、どうしても好奇の目で見られてしまうのです。たいていの事態には落ち着いて対応する自負はありますが、こうした類の目線というものは未だに苦手です。
 それはさておいても、何か忘れ物をした気がします。いえ、心底良い買い物だったので心残りはないのですが。
 帰り道は不思議と気分も軽くなり、自分でも分かるくらいにこやかな顔で帰路につきました。
 雑木林を抜けて館に戻ってきました。ひとまずは戦利品たちを食品貯蔵庫に安置しなければなりません。人肌のぬくもりもとうに抜け切ったスリッパを履いてから向かいます。
 食品貯蔵庫。普通であれば業務用として使うような大きいものです。昔、まだこの館に多くの人間が住んでいた頃にはこれでも小さいくらいでしたが、いまとなってはただの電力食いのバケモノです。いつ人が帰ってきても大丈夫なように使い続けていると言えば体面は良いのですが。
 現状ではそんな心配をする必要はなく、庫の重い金属扉を開いてはすかすかの棚に野菜やら肉やらを並べていきました。
 そうしていると私に迫る別の気配。
「ふふふ、待っていたわアカリ! さあ、ショータイムの時間よ!」
「お……お嬢様、ですよね?」
 振り返れば、廊下の電灯を浴び、お嬢様が仁王立ちしながらこちらを指差し見栄を切っていました。とってもお行儀が悪いしはしたないです。
 いつもならこんな真似はしないので、きっと見ていたフィルム映画のせいでしょうか。
「ちょっと、アカリも乗ってくれないと恥ずかしいじゃない」
 不満げです。
「はしたないですよお嬢様」
「ただの茶目っ気よ。
 それより、ポップコーンはできる? あれがないと締まらないわ」
 もちろんです、と言って貯蔵庫の棚を見て、ようやく気付きました。もしかすると「しまった」と声に出していたかもしれません。そうでなくとも固まった私の姿は十二分に怪しかったでしょう。
 私の挙動を見てか、お嬢様がおそろしい質問をもう一度ぶん投げかけてきます。
「……アカリ?」
「すいませんお嬢様、その……」
「買い忘れたのね」
「申し訳ありません!」
 こうなっては平謝りするほかにありませんでした。昨夜の食べ物の件に続き、今日もくじけず失態を演じてしまったのです。もはや、言い訳の言葉も見つかりません。
 私は深く深く頭を垂れ、次の言葉を待ちました。
「ねぇアカリってば、私は熱々のポップコーンを食べたいのよ」
「ですから、謝罪に」
「だから頭を上げるのよ。そんな体勢ではいつまで経っても料理できないわ」
 そして手。お嬢様の幼く柔らかい手が伸び、紅潮していたであろう頬に添えて持ち上げてくれました。
 ね?
 慈しむような微笑で、励ましてくれました。この笑顔に、何度助けられたか。お嬢様は一週間に平均七回は犯す私の失敗を、今になっても許してくれています。
 ただし箱入り娘とメイドと来れば、励まし励まされる立場は逆なのかもしれませんが。
「ありがとうございます……ありがとうございます、お嬢様」
「とはいえ、これで三六五二日連続記録更新だわ。
 少しは反省の色を見せてもらいたいものね」
 いくらなんでも、そこまで酷くはないと思うのです。けれどもお嬢様は数字など大した意味はない、とばかりに今後の対応について作戦を練っている様子でした。
 私も許された(たぶん)以上、いつまでも落ち込む訳にはいかないので黙って見守ります。
 ややあって、お嬢様は目を開いて告げました。
「アカリ、これからしばらく私を『お嬢様』と呼んではダメよ」
 意味が分かりません。私が何を言ったものかと口を鯉みたいにぱくぱくしていると、お嬢様が、もとい……お嬢様が言葉を補ってくれました。
「なんと言ったものかしらね。貴方っていつも私のこと『お嬢様』呼ばわりじゃない。だからこう、もっと砕けた表現が欲しいのよ」
 お嬢様が拙い表現で自分の考えを飲み込ませようと頑張っています。でも仮に、いくら巧い表現を持ち出したとしても私は納得できないでしょう。
 私は館のメイドで、彼女は館の娘。主従関係にはなれても、友人関係には決してなれないのです。それを今しがた態度で示してくれたのは、誰でもないお嬢様ではないですか。
「なりません。私は仮にもメイドですよ。そんな失礼な真似が」
「十年間も私に失礼を重ねてきたメイドが言えるセリフじゃないわ」
 痛いところを突いてきました。心なしか、心理的優位に立ったお嬢様の唇が吊りあがっている気がします。
「……か、仮に『お嬢様』でないとしたら、どうお呼びすれば」
「私は砕けた感じがいい、と言ったのよ。なんとかしてオジョーサマ、を噛み砕いてみなさい」
 また無理難題をぶつけてきます。困る私の反応でも見て楽しんでいます。とはいえ、ここでお嬢様を満足させなければ汚名返上とはなり得ません。
 頭を必死に回転させ、無い知恵を遠心力で以て搾り出します。おジョーサマ、オジョーサマ、オジョオサマ、オジヨウサマ……。
とりあえず、砕けた感じがいいそうなので「お」と「様」は余計でしょう。ジョウ。これではいくらなんでもいかつ過ぎるので、濁点を取り払って、ショウ。まだまだ男っぽい響きがしますから、
「では『シヨウ』というのは如何でしょうか」
「シヨウね、シヨウ……」
 その名前をかみ締めるように繰り返すお嬢様。
「気に入ったわ」屈託の無い笑顔で受け入れてくれました。私も一安心です。
「では、おじょー、いえ、シヨウ。ポップコーンの件ですが」
「分かってるわ。今から買いに行きましょう」
「はい。でもあの、お金が……」
「それくらい自分で出すわ。言い出したのは私なんだし。ほら、さっさと行くわよ」
 ですが、と口を挟もうとする私の手を引っ張り、玄関の方へとずんずん進んでいきます。その手はあまりに力強く、私なんかの手では決して振り解けませんでした。もっとも、断ったら断ったで執事さんにお金を無心しなければならず、少なからず気が進まなかったのもあるのですが。
 しかしやはり、一番大きい理由がシヨウ、呼び捨てされたお嬢様の横顔が幸せだったからです。手首にしがみついてきたシヨウの手が握り締められるたび、私もたまらず握り返したのです。
 流れのままにずるずると玄関まで引っ張られていきました。二人してスリッパを脱ぎ、靴に履き替えます。すっかりがらんとした玄関に向かって、いってきますとシヨウが呟きました。返事はやっぱり聞こえてきません。

 先程の買い物から一時間も経っていないわけですから、従って景観にもほとんど変化はありません。ただ少し日が陰ったのか、空の黒味がほんの少し増しているようにも感じました。
 人によっては不気味にも感じる森の小道を、二人で並んで進んでいきます。浮かれたシヨウの方がちょっとだけ早足で、私を追い抜かしては止まってまた追い抜かす、を繰り返しています。
「せっかくだから爺さんにもニックネームつけてあげなきゃね」
 映写室で見ていた映画などの他愛ない話に混じって、いささか急な提案もしてきました。
 さんざん迷った私とは対照的に、最初からこう呼ぶかと決めてあったように「『シツ』でいっか」と投げ槍に即決なさったのは呆れましたが。
 曰く、執事とシツ爺のダブルネーミングだそうです。それはダブルネーミングではなくダジャレの類ではないかと思いましたが、シヨウという名前だって似たようなものなので口には出しません。
 やがて町に出ました。
 寄り道もせずにスーパーへ向かう私達でしたが、ちらりちらりと行き交う人の目線が気になります。シヨウ一人ならば金髪少女に造詣のある御仁しか興味を示さないでしょうが、横にメイド服を着込んだ女性がいるとなると注目を集めてしまうのでしょう。
 シヨウもいささか居心地が悪かったようで、
「コスプレは場所と時間を選ばないとダメね」
 などとこちらを睨んできました。
「町外れの森にメイドが住みつくような洋館が建っているなんて、知らない人も多いですから」
「……そうなんだ」
 あまり外と関わりませんからねー、と軽く流したのですが、シヨウは何故か考え込んだ風でした。
 ともあれ、スーパーに着きました。食べ物に関しては一回目の買い物で買い込んだとおりですし、シヨウの小銭を頼りにするわけにもいきません。とっとと目当てのポップコーン用トウモロコシ粒だけをレジに持って行きます。
「シ、シヨウ! よく見たらプリンが百円未満でした! 買いましょう買い溜めましょう!」
 するとシヨウは小さく笑って、
「買い物ならさっき済ませたんでしょ」
「うわーん」
 と、無事に買い物を済ませたのでした。
 帰り道もまっすぐ帰れば良かったのですが、シヨウは名残惜しく帰りたがらない様子でした。往来が右へ左へ分かれるたびに、その道の続く方へきょろきょろと首を捻っています。非常にうわの空で、横道に気を取られるあまり幾度も通行人とぶつかりそうになるのです。三回通行人と肩が当たりそうになり、二回電柱とぶつかりかけて、一回犬のしっぽを踏む寸前になるのを見ていると流石に危なっかしく思い、レジ袋を持ち替えシヨウの手を握ってやらねばなりませんでした。
 ですがそれでも止める様子がないので、私は気になるものがあるのですかと尋ねてみました。
「住宅地だからかもしれないけれど、ここって家ばっかりじゃない?」
 なるほど。
 この辺りは都会から離れた静かなベッドタウン、が不動産屋の売りらしいですから、民家ばかりなのも仕方がないでしょう。樹木に囲まれた家で過ごしてきたシヨウにとっては、珍しく思えるのかもしれませんが。
 ふいに、シヨウを握る手が引っ張られました。何か見つけたのか、と思って視線を辿ると一戸建てにして一軒分くらいの空き地がありました。それはお世辞にも整備されているとは思えない公園で、至る場所から雑草が生えています。隅の方にチェーンの切れた放置自転車が打ち捨ててあり、中央にはとりあえず賑やかしに建ててみたブランコがありました。食い入るようにそのブランコを見つめ、猛烈に乗りたいアピールをしています。
「まぁ、特に急いでいるわけではないですし」
「私はまだ何も言ってないわ」
 口答えはしたものの、繋いでいた手を離すとぱっと駆け出して行きました。私も牛歩で後ろから追いかけます。ブランコはちょうど二台あるので、並んで腰掛けるとしましょう。後ろから押そうかとも考えましたが、せっかく良い機嫌を損ねてしまいます。
 隣で上機嫌のシヨウは激しく漕ごうとはせず、ゆらゆらと前後に揺れています。
「二人でブランコに乗ってると、昔を思い出すわね」
「はい?」
 思わず聞き返してしまいました。突然の問いに聞き流してしまったからではありません。私の覚えている限りでは、シヨウとブランコに乗った過去などないからです。
「ほら、家の庭にあったじゃないの。枝からロープをぶら下げて板に結んでアカリが背中を押してさ」
 ブランコを揺らすのも止め、私に向き直って解説を加えてきます。ですが絶対にありません。家の周りにある木で遊んだのは、蜂蜜を塗ってかぶとむしを集めたときくらい。私とシヨウは小さい頃からずっと一緒でしたから、私以外の人との思い出で混乱するということも有り得ません。
「……申し訳ないですが、やはり記憶違いでは」
 友だちの話を聞いて想像を膨らましたのかもしれません。シヨウに限ってそれはないですが。他にも幼いときに読んだ童話で、似たシーンがあったのかもしれません。可能性はいくらでもあるのです。説得してみましたが、しかしシヨウは割り切れないようでした。さっきまでよりも更に控えめに漕ぎながら、はしゃぎようが嘘だったように思案に耽っています。今日はこんなシヨウを良く見る日です。何もできない心がいたい。
 ややあってから、一言一言言葉を選ぶように口を開きました。
「確かに思い違いだったかもしれないわ。でも本当にブランコがあったとしたら、私は忘れちゃっていいのかな。実際のところはちゃんとあったのに、一人しか覚えていない私が忘れてしまっては、木のブランコは誰からも思い出されなくなっちゃうわ」
「そんなの、物の宿命ですよ。それに一人しか覚えていない、というはずもないでしょう。シツさんだって知っているかもしれませんよ」
 私は努めて明るく言いました。念のため付け足した笑い声が乾いていたのは「お前が言うな」らしき目線を浴びたからでしょうか。
 家のある方に向かって、雲を裂くように飛行機が飛んで行きました。
 どれ位そうしていたのか、ブランコは十分漕いだので、どちらからともなく立ち上がりました。学校を終えたのか、通りを数人の学生たちが騒ぎながら駆け抜けていきます。
 そろそろ帰りましょうか、と言いかけて、周りの民家から漂ってくるいい匂いに気付きました。晩御飯の仕込みでしょうか、料理酒とみりんを煮込んだような香りです。
「そろそろ帰りましょうか、私もおゆはんを作らないといけません」
「そうね、楽しみだわ」
 言いながら公園からは抜け出しました。もうシヨウは路地に気を取られはしなかったのですが、代わりに肩を落とした彼女を見ていると漠然と不安になり、たまらず手を握ってしまいました。一瞬驚いた風でしたが、無言で握り返してきます。
 この後シヨウはあちこちに目線を動かしてはいなかったのですが、私がある建物に目を奪われました。これでは先程と立場が逆です。
「どうしたのアカリ、えーっと、……らーめん?」
「麺類の一種ですわ」
「そーめんの親戚でしょ、知ってるわよ」
 ここまでなら良かったのですが、私が熱心に視線を送っているのに、シヨウも尋ねずにはいられなかったようです。
「……食べたいの?」
 スーパーからの行き帰りで必ず通るこのラーメン屋。実はとても前から行きたいと思っていました。さりとて、所持金は館の食費しか持ち合わせていませんでしたし、よもや使い込むわけにもいきません。結果として、高嶺の花であるラーメンの匂いだけを嗅ぐ日々が続いていたのです。
 とはいえ、今にしても余計なお金を持ってはいませんから立ち去るしかないでしょう。ですが、踵を返そうとした矢先、
「いいじゃない、食べましょう。特に高いものではないでしょう」
 お嬢様が、間違えました、シヨウがとんでもないことを言い放ちました。
 ラーメン屋といえど、小さい町の国道沿いにある小さなところですから、吃驚するほどの高級ラーメンを出す、なんて事態はないでしょう。二人分でも、お札一枚でもあれば十分に事足ります。メニューを直接聞いたのではないからあくまで想像ですが。
ああ、問題は別でした。
「い、いけません。こんな野暮ったいお店」
「店先で変なこと言わないの。大丈夫、お金ならちゃんと私が払うから」
「ですがシヨウは歴としたお嬢様であって……」
「どうせ気付かれないわ。誰も知らないんでしょ?
 さ、入るわよ」
 私の反論も聞こうとせずに、がらがらとお店の引き戸を開けて中に入ってしまいました。たまらず私もついて行きます。
「いらっしゃい! おっとお姉さん、ちゃんと戸は閉めてくれよ」
 うっかり開けっ放しで店のど真ん中まで歩いていました。こういうお店に入るのは慣れていないので、勝手が分かりません。ともかく引き返して、扉に手を掛けました。立て付けが悪いのか、多少力を込めないといけませんでした。
 苦戦しながら扉を閉めてから、ふうと一息ついて改めて店内を見回します。天井から床にかけて、油の臭いと色が満遍なく染み込んでいるのが分かります。それはカウンター席や四人がけの客席も同じで、椅子の赤いクッションからはところどころ黄色いスポンジが見えていました。
時間がまだ夕方という悪条件もありますが、お世辞にも繁盛しているとは言えない状態です。お客も私達ふたりだけです。
 カウンターの中では店主らしき中年男性と中年女性が動き回っていました。夫婦で切り盛りしているラーメン屋と考えて良いようです。奥さんの方は気立ての良さそうな堂々たる恰幅で、夫の方は恰幅も無ければ自信も無さそうな風姿。ラーメン屋でイメージされがちな頑固親父ではないのかしら。扉について私に注意してくれたのも、奥さんの方でした。
 シヨウはと言えば、三つ並んであるテーブルのうち、中央の席の壁際にちょこんと座っています。方向からして自然に私と目が合う形になります。早く座りなさい、と目で合図を送ってきました。
 急いで駆け寄りつつ、
「シヨウはこういう場所に来たりするのですか」
「するわけないでしょ、アカリこそどうなのよ」
「私だって初めてです」
 勢いこんで入店したのは良かったのですが、二人とも注文の仕方が分かりません。誰に声をかけるのか? 目的のラーメンを食べるには? いやいや目的のラーメンとは? 問題はその辺りからでした。
 シツさんなら、ラーメン屋の一つや二つ、入店した経験があったでしょう。たとえなくとも、機転を利かせて何とかしてくれたはず。残念ながら、私では考えが浮かびません。
 ところがシヨウ、
「まあ、いいわ。どうせ客は私達だけだし、特に恥じる必要もないでしょ」
 と言いながら腰を上げてカウンター席にちょこんと座りました。私ラーメン食べるの初めてなんです、と奥さんと談笑までし始めています。さすが育ちのいいお嬢様と言うべきか、恐るべき社交性です。
 金髪ツインテールのお嬢様とメイドさんの珍妙な来客はどういう訳か奥さんにいたく気に入られたようで(いわく、アタシの若い頃に似ているらしいです)、一番安い「しょうゆらあめん」を選んだ私達に、餃子六個をサービスしてくれました。
 厨房で主人がラーメンを湯がいている間、奥さんとシヨウはとりとめのない話を続けています。私は話に加わりもせず、静かにお冷を啜っていました。
 やがて注文の品が出来上がりました。持ってきた主人は、そそくさと中に戻っていきます。お陰でありがとうございます、と言いそびれました。
 とはいえ容器からは湯気が立ち上り食欲をかきたてられましたし、黄土色の麺を幸せそうに頬張るシヨウを見ているのはこの上なく幸せでした。
 なにせラーメンを食べるのが初めてだったので、今食べているものがラーメンとしておいしいのかは分かりませんでした。が、奥さんからの「おいしいかい?」という質問には「ええ、とても」とお上品に頷いていました。それからこちらを見て照れたように微笑んでいます。恐らくシヨウにも味はよく分からなかったのでしょう。
 ラーメンを減らしながら、いい塩梅に具が冷めた餃子を三つずつ分け分けします。猫舌のシヨウにはまだまだ熱かったようで、一つつまんだあと残りは最後まで手をつけませんでした。餃子の中身は具がぎゅうぎゅうに押し込まれていて、噛めば噛むほどに汁がたくさん出てきます。
 料理を全部食べ終わると、奥さんが勝手に食器を下げてくれました。アンタ、ちゃんと洗っとくのよ! と、ご主人との仲睦まじい掛け合いが聞こえてきます。カウンター席からは見えない厨房まで一旦引っ込んだ彼女でしたが、食器を押し付けるだけ押し付けてすぐに戻ってきました。食い逃げされるとでも思ったのでしょうか?
 しょうゆらあめん二食分の代金、千円札をシヨウから受け取って、奥さんは手を振ってまで見送ってくれます。
「また来なよ!」
 私達ふたりは振られた手に対してにこやかな笑顔を贈り、人生初のラーメン屋さんは幕を閉じました。
 すっかりお腹もいっぱいになって、今度こそ真っ直ぐ家路を急ぎます。寄り道をしまくりましたから、自然と足取りも速くなるもの。
「アカリ、もうちょっとゆっくり歩きましょう……」
「そ、それがいいですね……」
 二人とも食べ過ぎていました。よって、あんまり急いでは帰れませんでした。
 季節が季節ですので、日が落ちるのもあっと言う間です。時刻で言えばまだ七時にもなっていないはずですが、あたりには闇の帳が下りていました。
町を抜けて、街灯もない森道の中を進んでいきます。不審者や野犬が出るというわけではありませんが、容赦なく吹きすさぶ風が冷たくて二人で寄り添って歩き進みます。私は冬用の厚い素材で編まれた服を着ているからまだいいですが、シヨウは薄手の白の長袖ブラウスのまま。
「寒くないですか?」
「寒いわ。寒いけど、季節が季節だもの」
 強がりを言うも、身を一層縮こまらせています。上着があれば一も二もなく被せています、しかしメイド服一丁ではどうしようもありません。
 ラーメンで暖まった身体もとうに冷めた頃、ようやく我が家へ辿り着きました。重苦しい玄関扉の鍵を乱暴に開け、シヨウを中へと入れます。
「申し訳ありませんシヨウ、すぐにお風呂を準備して参りますので」
「いいわよ……早くベッドに入りたい……だって毛布が私を呼んでるから」
「そんなんじゃ風邪引きます、さあ早く服を脱いで」
「いま脱いだ方が風邪引くわ……もお」
 シヨウを二階のお部屋まで運び、フィッティングルームから急いでバスルームに入ります。シヨウの部屋の横にあり、バスタブとシャワーだけの小さな室です。赤い蛇口を捻って、出てきたお湯から湯気が立ち上るのを確認しました。
 シヨウの体が十分浸かれるくらいまでお湯を注ぎ、バスルームを出ます。フィッティングルームでは、既にシヨウが服を脱いで待機していました。
「お待たせしました、もう入れますよ」
「タイミングぴったりね。じゃあ後はよろしく」
 そう言って浴室の中へ消えて行きました。私も頼まれたとおり着替えを用意したり、シヨウの体温が残る服を洗濯機のある所へ運んだりします。それから、ずっと手に提げていたポップコーンのレジ袋もどうにかしないと。注意書きを見る限り常温で保存しても大丈夫なようですから、明日すぐに作れるようキッチンに置けばいいでしょう。
 ところでキッチンに入るために通った食堂のテーブルには、メモが残してありました。
 走り書きで、「今夜もご飯いりません」とだけ記してあります。名前は書いてありませんが、シツさんのものです。私達が内緒でラーメンを食べて来たから拗ねたのかしら。外食についてシツさんが知る術はありませんけれど。
 メモをゴミ箱に捨てて、ビニール袋からポップコーンを取り出します。
 これで今日の仕事はとりあえず一段落しました。シヨウの為に温かいお茶の用意もしていたのですが、風呂からあがったシヨウはそのまま寝込んだようです。久しぶりの外出で疲れたのでしょう。
 私も湯浴みを済まし、床に就きました。


 翌朝。いつもどおり、日の出と共に起きました。
 軽い朝食を頂いてから、掃除・洗濯などを済ましておきます。今日も昨日と同じくらい晴れた天気で、同じくらい長閑な日になる予感がします。
 昼頃になると、シヨウが起きだしてきました。この時私は食堂のテーブルを水拭きしており、昼ご飯を食べにきたシヨウと出くわす形になりました。
 パジャマ姿でうろつくのはみっともないから着替えるように求めておいて、私はひとり食料貯蔵庫に向かいます。目的は昨日仕入れておいたレタスとロールパン。昨晩はラーメンのような脂っぽいものを食べたのですから、こうしたさっぱりした物が良いでしょう。往々にしてパジャマ姿で現れるときは機嫌・体調とよろしくないからです。
 食堂に戻ってくると、むすっとした顔のシヨウが椅子の上で船を漕いでいました。まだパジャマ姿です。少し変わったと言えば、髪を二本ではなく一本に結っている点でしょうか。左側の頭から長い髪が垂れています。
 半ば諦め半ば呆れ、着替えさせるのは断念しロールパンの切り込みにレタスを挟んだものとコーヒーを一緒に食べました。
「紅茶の方がいい」
「着替えてくれたら出しますよ」
「じゃあいいや」
 食事も終え、今日は何をするつもりなのかと尋ねたところ、映写室に閉じ篭ってフィルム三昧だと返されました。不健康極まりないですが、物事に興味を持つのは悪くありません。強引に解釈します。
 今日こそポップコーンを用意すると約束し、昼食を片付けます。

 家事を済ますうちに三時になったので、手を中断しポップコーン作りに掛かります。作るのは初めてですが、パッケージ裏解説によればそんなに難しくない様子。フライパンに油を撒き、三十分程で無事にすべて作り終えました。
 底の深いお皿に盛って、映写室に行きます。
 ノックをしてから、返事を待たずにドアを開けます。窓もない部屋で、プロジェクタから投影された映画を見るシヨウの顔がぼうっと照り返しを受けています。
 映写室という古めかしい響きに、眠っているのは古いフィルムを連想していました。けれど、シヨウのお父様が集めていらしたのはもっと近代的な装置だった真実に、この時初めて思い当たりました。
 シヨウは私に一瞥をくれると、黙ったままこちらに来るよう促しました。
「待ってたわ。折角だからアカリも見る?」
「ではご一緒させて頂きますね。はい、おやつです」
「ありがと。……む、コーラが足りないわね。
 ああ、買って来なくていいわよ」
 腰を中途半端に上げた私を手で制します。そのまま伸びた指先でコーンを摘みあげました。私も同じく時折ポップコーンを口に入れながら、映画に見入りました。
 記憶媒体は新しいです。ところが、肝心の内容は恐ろしく古臭いつまらないものでした。私の語彙では、相応しい単語が浮かびません。
 ジャンルとしてはサスペンスらしき物。資産家の遺産相続と実子・養子・親族が思案を巡らせどうのこうのなさる緊迫した設定です。その割には腹黒息子の策略と掛け声を皮切りにボイラー室内が次々と爆ぜ、ミニチュアのお家が白粉まみれになり、新しい掃除機の宣伝をして、娘と養子が禁断の愛に落ち、迫真の大根演技でお互いを裏切り、現場検証に来た警官を金銭で篭絡して有り金を釣堀の中に沈め、挙句趣味で釣りに来ていた勤め先の部長が偶然ゲットし、その金で帰りにマグロを買って帰り、ラストは一族の遺恨が廃墟と化した家に住み着いていた野良犬に憑依し、トイレにあった隠し遺産をいぬまんまにして食べてしまう壮大なストーリーでした。
 これは確かに飲み物……特にコーラが必要だったかもしれません。
 一応クライマックスまでおとなしく見てから、隣に話しかけます。
「シヨウ、こんな映画を見ていて飽きないのですか?」
「飽きるわよ。飽きたわ。もうずっと前にね。さて、」
 と言うや否や、ポップコーンをスクリーンにぶつけました。その姿、雨霰の如し。
「遠慮しないで、アカリも投げなさい」
「と言われましても」
「投げるのが礼儀なの。こういう映画にはね」
 もったいないのか、投げるコーンは一粒ずつ。私も促されるままに二、三個ほど放ります。スタッフロールで流れていくアルファベットの上に音も無く当たって、床に散らばりました。
 散らばったコーンの後始末は自己責任ですからシヨウに任せるとして、私は炊事もあるので映写室を後にしました。
 そのあとは庭掃除などをして過ごしました。
 事をこなして日も落ちる頃になって、一日遅れではありますが皆の夕食を作ります。今日こそは仲良く食卓を囲むつもりでした。ですが結局、二人とも姿を現してはくれなかったのです。午後十時四七分までは待ったものの痺れを切らし、向かった映写室にはシヨウはもういません。ポップコーンも散らかり放題。慌てて部屋に行くと、なんと既に毛布にくるまりベッドで寝息を立てていました。
 私自身、ごはんを食べずに粘っていたので、ここでふっと緊張の糸が解けてしまいました。シヨウの体に重なる形になって倒れこんだと思われます。
『むにゃ……む、といれね。といれにいくべきだわ』『ぐえ……何よ動けないじゃない。このままでは<寝たままで>という有り得ない恥を晒す事になるわ』『なんだアカリだったのか』『おーいアカリー。アカリちゃーん。起きてー』『起きる気配が無いわね。ちょっと強引に動かすけど』『うわあ何この肌柔らかい』『これでトイレに行けるわね』『ただいまー』『この子枕まで取ってるし』『ふむ、意外に可愛い寝顔してるわね』『……』『いい香りがするってのは幻想ね、お風呂入ってないんじゃないの』『まあいっか、えい』『ふう、安らぐわね。主に私が』『ほんとやわら……か』『。。。おはようあかりぃ』『おなかすいた……流石に今朝は我慢できないわね。昨日ロクに食べてないもの』『この子が隣に居ると二度寝も難しいわ』
 妙な夢を見ているなと感じて、次の瞬間気付いたら朝になっていました。時計を確かめようとしたのですが、いつも時計がかかっている場所には見当たりません。何時の間に模様替えしたのかと辺りを見回しますがどこにもありません。というか、私の部屋ですらありません。寝ぼけ眼をこすりつつ身を起こし、ようやく自分がシヨウのベッドで寝ているのだと気付きました。
 さらに悪かったのが、太陽が完全に昇りきっていたところです。チュンチュンという雀のさえずりすら聞こえてきそう。エプロンドレスのまま寝転がっていたようで、差し当たって皺をきちんと伸ばして身なりを整えます。胸ポケットの辺りにメモが挟まっていました。「三六五三」とだけ書かれてあります。見覚えのある数字ですが、何の数でしょう?
 ともあれ悩んでいるヒマはありません。シヨウはとっくに起きているようですし、メモ用紙をポケットに捻じ込むと部屋を飛び出しました。
 目指すは食堂です。
 階段を三段飛ばしで駆け下りて、一階にほぼ飛び降りる勢いで着地すると、柱の陰からぬっと現れた少女と目が合いました。言うまでも無くシヨウです。昨日のようなずぼらな格好ではなく、黒いシフォンブラウスに白いカーディガンを重ね着しています。下に履いているのはキュロットスカートのよう。ただし髪はぼさぼさです。
「騒々しいわね」
「あ、お、お嬢様! おはようございます!」
 慌てふためく私に向けて一言、シヨウでしょ。こちらとしては呼び方以前の過ちを犯している件で、色々気が気でなかったのですが。しかしまずはそこから訂正しないと、まともに取り合ってはくださいませんでした。
「う、おはようございます、シヨウ」
「はいおはよう」やっと顔を崩して下さいました。
 ひとまずは添い寝への謝罪、並びに寝坊へのお詫びです。思い出しただけでも頬が紅くなるのが分かります。が、いままさに開けんとする私の口を遮って、シヨウが言葉を挟みました。
「あんまり遅かったら昨日の晩ご飯、勝手に温めて食べちゃったわ
 あれはむね肉のソテーよね、おいしかったわよ。ちょっと味が薄かったけど」
「塩コショウが切れましたから」
 そう、と興味無く答えました。次投げかけられる言葉に、私も思わず身を硬くします。
「アカリ、さっきから変よ。お腹すいてるんならさっさと食べてきなさい」
「は、はい? そうなんですけど、そうではなくてですね……」
「心配しなくても、ちゃんと残してあるから。寝坊なら怒ってないし、早く仕事に戻りなさい」
 どうにも様子が変です。はっきりココが変だ、という決め手はないのですが、一刻も早く立ち去りたい雰囲気。かといってお手洗い的なものとも見受けられません。
「じゃあ、今日も映画見てるから」
 私が呼び止める間もなく、すたすたと歩いて行ってしまいました。何でしょう、照れている? 今思えば、シヨウの頬も軽く染まっていたような気がします。
 いずれにせよ、階段前にぽつんと残された私。このまま突っ立っていても仕方がありませんから、言われた通りに食事にします。
 食堂の横長テーブルの上には、昨日作った鶏むね肉のソテーがありました。昨日貯蔵庫にしまうときにかけたラップをしたままですが、触ってみると温いです。シヨウが自分の分を温めるついでに用意してくれたのでしょう。
 私ひとりの食事にわざわざ茶葉を使う必要もないので、蛇口を捻って水道水をガラスのコップに注ぎました。料理を温めなおすかとも考えましたが、かぶりを振ってすぐに打ち消しました。ちょっと温もっていれば十分ですから。
 そう、十分すぎます。残り物のソテーでもまだ量が多かったので、貯蔵庫で保存しませんと。私もシヨウに負けじと小食なのです。
 独り食堂で遅めの朝ごはんを食べ終えたら、ようやく本日分の家事を始めます。
 まずは掃除からです、最優先で映写室のゴミを片付けないと気が済みません。もっともシヨウがやっているかもしれませんが。
 かくいう訳で、自分の部屋から愛用の箒と塵取りを持ち出して映写室へと足を運びました。中ではシヨウが映画を見ているはずなので、邪魔になるのではないかと少し不安です。
 ノックをしてから、音もなくドアノブに手をかけてゆっくりと押します。
『おれはおねえちゃんたちに遺産は渡さない! ショータイムのはじまりだぜ!』どかーん。『きゃあ!』『今の爆発は一体なんなんです』『たいへんだ、ボイラー室が!』『な、なんだってー』
 スクリーンには、案の定B級映画が……おや、これは昨日も見たやつですね。よほど気に入ったのでしょうか。
 そして床に目を落とします。映るのはポップコーンの貴重な散乱シーン。まあ、あまり期待はしていませんでした。
 どうせ昨日も見た映画です。クライマックスまで待ってあげるという選択肢は今の私にはありません。
 腹を固めて、スクリーンの前に座るシヨウの肩に手をかけました。
「きゃっ!」
「わっ! お、驚かないでください」
 ずい分真剣に観賞していたのか、椅子から飛び上がらんばかりに驚かれました。ちゃんとノックはしたのですけれど。
「もう、びっくりした……どしたの」
 既に機嫌を悪くしているのが最後の四文字から伝わってきます。しかし私も負ける訳にはいきません。まなじりを決して、譲らぬ姿勢を作ります。
「シヨウ、なんですかこの散らかり具合は」
「なによ、散らかってなんか……あら? やだ、忘れていたわ」
 あたりをぎくしゃくと見回して、詰まりながら話しました。こんな映画を、どれほど真剣に観ていたのでしょう?
「ともかく、掃除致しますから。シヨウはとりあえず」
「ええ。一旦席を外すわ、ごめんなさい」
 そう告げると、ふらふらと床のコーンを避けながら出口へ歩いて行きました。力なくドアを開けて廊下へと消えます。射し込んだ光が眩しくて、少し目を細めました。
 ……まぁ、お仕事が増えるのは素敵です。

 改めて電気をつけて、床を掃いていきます。よくよく考えると、鍵を使って以来まだ一度もこの部屋を掃除していませんでした。封鎖していた時ももちろん掃除できていないので、埃やら虫の死骸やら、様々なゴミが溜まっています。ただそんな場所でも、いえそんな場所だからこそ、長い間物を置いてあったらしき場所は綺麗でした。大きさからして、いまプロジェクタを乗せている机のようです。天地逆さまにしていたのかしら。
 いらぬことを考えてしまいましたが、後は集めるだけ。塵取りを床に押しつけて収集していきます。
 あらかた掃き終えた時分に、ノックもせずにドアを開けて誰かが入ってきました。無論、シヨウです。
「ねえ、シツ見なかった? 爺さんってばどこにもいないのよ。部屋には鍵がかかってるし、まさかポックリ死んでないわよね」
 シツとはどちら様だったかしらと逡巡してから、執事お爺さんだと思い当たります。
「死んではいないと思いますよ。でも確かに姿は見ていませんね」
「やっぱり! 具合悪いのかな」
 シヨウが目を丸くして尋ねてきます。
「単に部屋から出てこないだけだと思いますよ。お夕飯も食べに来てらっしゃいませんし」
「な、かなり危ないんじゃ」
 今にも執事室に向かいかねない勢いです。でも私は笑顔をつくって制止しました。
「シヨウは知らないかもしれませんが、シツさんには昔からよくあったんですよ」
 側近の動向も知らないのかい、と言われてむっとした彼女は、翻した足先をこちらに戻すと反論する言葉を探しました。思考が二回りほどして、ようやく材料を見つけたようです。
「でもでも、何も食べてないんでしょ」
「そうでもありませんよ、あのお爺さんは夜中に這い出してきて、買い置きの食料を貪り食っているとかいないとか。私たちにバレないように」
「まるで妖怪じゃない。でもまぁ、死んではいないのよね。ちなみに、何を食べられたの?」
 ええと、と息を吐きながら貯蔵庫の中身を思い出します。一昨日にあすこにあれをしまって、昨晩のむね肉と青ネギがあれの内から減って、今日は……おっとまだ何も作っていませんでした。つまるところ私が使った食材以外、一切使われていません。とっても経済的。

「お嬢様」
「シヨウでしょ」
「あの人、しばらく何も食べてません」
 私たちは、一緒に部屋を飛び出しました。正確にはドアを通るときシヨウに道をお譲りしたのですが、それは言葉の綾というものです。
 シヨウを先頭に、執事室へ殺到します。昨日と同じくやはり鍵がかかったままです。シヨウが乱暴にドアを叩いたり、ノブを執拗にがちゃがちゃやっていますが中からの反応はありません。
「どうしよう、裏に回って窓から覗いてみる?」
「カーテンが閉められたままです」
「じゃあ合鍵……は全部ここで保管してたっけ」
「そうですね。お嬢様、危ないからちょっと下がっていてください」
「だからシヨウだって、え、何する気?」
 私も三歩後退して、十分な助走距離を確保します。シヨウにもう少しだけ離れるよう手で合図してから、一気に両足に力を込めて蹴りだします。
「やっ!」
 押してダメなら押し倒せ。気合と共にドアを蹴破り、設計者の意図しなかった方向へ倒しました。
「よくやるわね」
「立て付けが脆かっただけですよ。さて」
と言いつつスカートを軽く払ってから、ついに室の中へ入ります。
 内装は前にも増して質素で、木製デスク、椅子、閉じられたカーテン、あとは本が全く入っていない本棚だけです。部屋の主の姿は影も形もありませんでした。遮光カーテンがぴちりと閉められ、人が居た形跡すら残らない室内。心なしか白かった壁紙もくすんでいるかのよう。本当にあの執事室なのかと目を疑いたくなります。
 中で老人が首を括っている最悪の想像もしていましたがそれより少しはまし、という有様でした。
「ふうむ珍しいわね。アカリはおろか私にすら告げずにお出かけだなんて」
 シヨウがつかつかと机の元まで近づきました。歩く様子を目で追います。裏側へ回ってどうするのかと思えば、さも当然のように引き出しを漁り始めました。上から順に開けていき、すぐに確認が終わるとまた下の段へ移っていきます。
「ダメね、全部持って行かれてる。あら、これは?」
 一番下の引き出しに、まだ忘れ物があったようです。私も近づいて覗き込みます。
 忘れ物とは、帳簿でした。館での直接的な現金出納だけでなく、お嬢様がお持ちになっている財産すべての資産情報を管理しているものです。数字が書かれた最後の欄は、ご丁寧に「現金預金等」に△が記された後、七桁の数字が並んでいました。わざわざ赤字の帳簿だけを残していった理由。もはや考えずとも分かります。
 引き篭もり同然の我々が借金を重ねる術もありませんから、損失は他人が起こしたもの。保証人の相棒という言い方もできます。元々あまり金持ちらしい生活はできなかった我が家ですが、遂に本格的に金持ちではなくなった、というところでしょう。借金持ちではありますが。
「この家売ったらどれくらいになるかしら」
「かなりボロが来ていますからね。修繕費でかえって赤字ですよ」
慰めても無駄なので、ありのままを伝えました。
「はあ、借家じゃあるまいし」
 特に落胆した様子もなく、冊子から目を離すシヨウ。そして、同時に部屋の電気が落ちました。
 一瞬何が起こったか分かりませんでした。まずブレーカーを落とすくらいの電化製品は使っていないはずです。誰かが部屋のスイッチを悪戯で切った? この館にはいま二人しかいません。
 すぐさま入り口まで戻って、壁にあるスイッチを何度か入れたり切ったりします。が、電球に反応はありません。
「無駄みたいね」
 シヨウが再び冊子を捲りながら言いました。「光熱費とか、かなり前から支払ってないそうよ」
「つまり止められたのですか」
 深々と頷きました。暗いので表情まではよく見えませんが。
「たまに想像して怖くなったりはしたけれど、まさか本当にこんな日が来るとは……シツが飛び出すのも無理はないか」
 やはりシヨウも、シツさんが借金まみれの家から逃げ出したと考えているようです。態度も含めて、彼女の語気からはどこか諦めの気持ちがありありと透けて見えました。
「シツさんを探さなくていいのですか」
「見当もつかないわ。出歩くにしたって出費が嵩むし、探偵屋も雇えないでしょう」
 今日は一本に縛っていた髪が、ゆさゆさと振られる音が聞こえます。
「にしても、タイミングが良すぎね。それに、映画見れなくなっちゃった。……あはは、実際になってみると、案外落ち着いていられるものね」
 帳簿を小脇に抱え、部屋から出るつもりです。
「シヨウ、どこへ行くのですか」
「電気を止められたのよ。水とかガスとか、早いうちに確認しておかないと」
 事も無げに言いました。私も賛同して、手分けして館中の蛇口とガス栓、僅かな期待を込めて電気のスイッチを点検していきます。

「どうだった?」
「水が最後に止められるっていう都市伝説は本当のようですね」
 三十分後。食堂で落ち合った私達は、お互いの成果を報告しました。全く芳しくありません。結局生きているのは水道だけのようです。せめてお湯になってくれればと思いますが、ガス給湯器式の当館では無理な話です。
 現在こそ部屋中のカーテンを開けて日の光を取り込んでいますが、いかんせん冬ですのですぐに暗くなってしまうでしょう。行動できる時間はあまり残されていません。私は探索中にずっと思索していたことをシヨウに尋ねてみます。
「今一番必要なのは、生活できるお金です。売れるような物を広間に集めて置いておきませんか」
「悪くない考えね、業者が大喜びするわ。でも売れる物なんて残っているのかしら」
「だから探すのです」
 そのまま今度は二人で館内を虱潰しにしていきます。かつて旦那様がいた部屋からクリスタルガラスの灰皿を。かつて旦那様の妻がいた部屋からは電気スタンドを。かつてシヨウの兄姉たちがいた部屋からはそれぞれ流行遅れの服、新品の化粧品、壊れた時計、贈り物の万年筆等を。思いの外売れる物がありません。本や小さい電化製品などはもっとあったはずですが、と問うと、とっくの昔にシツさんが売ってしまったんじゃないのと返されました。
 後はどの部屋にも残っているような布団・毛布の類や家具を運ぶくらいしかできません。家具と言っても机程度なら二人がかりで持てますが、ベッドとなると流石に不可能です。
 最初は重いですねそうね、気をつけてくださいそうね、と会話を交わしながら運んでいた私たちでしたが、徐々に口数が減っていきました。休憩もせずに淡々と玄関近くの広間へ寄せ集めます。
 時間はかかりましたが、やっと全ての部屋を空にできました。館内もすっかり暗くなり、目を細めないと物が判別できません。二人とも鳥目の気があるらしいです。
「もうちょっと早く切り上げるべきでしたね」
「大丈夫よ、まだ見えるわ」
 と、広間をふらふらしながらシヨウ。家具がそこら中で乱舞しているので危ないですよ、と言おうとした矢先にあいたっ、と声をあげました。
「嘘ばっかりですね、怪我しますよ。はい、手を出してください」
「ちょ、ちょっと! だから見えてるってば」
 抗議の声を無視して、シヨウと手を一つにします。危険であるし、館ではぐれたら場所が分からなくなるから、と思ったのです。しかしよくよく考えると、繋ぐまでも無く二人で行動すればいい話なので無意味でした。けれどもシヨウは以降ちっとも抗議せず、私も気付かないふりを続けました。
「では夕食にしましょうか」
 しれっとしてシヨウを引っ張ります。

 夕食はとても豪勢でした。破産記念のお祝い、といった風情でしょうか。なぜなら電気が止まったお陰で食品貯蔵庫も機能を停止してしまったから。冬場とはいえ、野菜や牛乳などを常温で放置するのは危険です。危険どころか貯蔵庫が下手に大きかったせいで、余熱が篭ってしまい大惨事でした。
 カーテンを閉めた食堂で、その豪華な食事をふたりぼっちで前にします。今日に限っては、ここの面積も食事に相応しいと思えます。
「まずは蟹とカリフラワーのジュレです」
「へえ、見た感じ、ジュレっとしてるわね」
「ジュレですから」
 ナイフとフォークが皿にぶつける音を立て、私たちは口まで運んでいきます。
「アカリ、飲み物を頂戴」
「はい、えーっと、コーヒーでいいですよね」
「紅茶の方がいい」
「左様ですか。どうぞ」
 私が差し出したティーカップをふらふらと指先で持ち上げると、一口だけ啜りました。それからはフォークを持ち上げる仕草を見せなかったので、いったん席を外してからキッチンに戻りました。次の料理が盛られた皿を持ってきます。
「では次に羊頭肉の薄切りです」
「珍しいわね、羊なんていまどき売ってたっけ」
「秘密の場所があるんですよ」
 にこやかに笑いながら、シヨウの前にある皿を脇にどけて、新しい皿を置きます。私の様子を見てか見ていないでか、シヨウが声を掛けてきました。
「別にいちいち立つ必要ないんじゃない? アカリも面倒でしょう」
「面倒は面倒ですけど……」
 言いかけてから私が返答に困っていると、
「じゃあ次で終わりにして欲しいわ。もうお腹いっぱいよ」
と助け舟を出してくださいました。確かに、いつもより品が多かったですね。私も満腹を感じたので、デザートを取りに行きました。
「デザートにとろけてふわふわのプリンです」
「プリンか、久しぶりだわ」
「シヨウの大好物でしたね」
 談笑しながら、本日最後の食べ物を消化していきます。居ない人の話をしても仕方がありませんが、ここにシツさんが居れば。館に残った三人でご飯を頂いたのは、どれくらい前だったでしょうか。もうずっと前から書類整理に追われていて、シツさんはまったく夕食時に姿を現さなくなったのです。その書類とは、やはり財産に関係するものだったのでしょうか。
 手も止めて妄想に浸っていた私でしたが、ご馳走様でしたの声で現実に引き戻されました。
「食事も終わったし、暗いし、水風呂に浸かるのはやめたいわね。早めに寝ようか」
「かしこまりました。できることないですしね」
 こうして、私たちは暗闇の中で食事を終えました。洗い物をしてもし割ってしまうと危険なので、カップとナイフとフォークだけを濯いで食器はテーブルの上に出したままにしておきます。
 似たような理由で、踏み外すと危ない階段を避けるために、二階のシヨウの部屋には行きません。一階にある、ベッドしかない私の部屋を使って二人で眠ると決めました。新しく着る物も探せるとは到底思えないので、このままで寝ます。最悪、服を売らなければならない状況になった場合、洗わないでおく方が高値になる可能性も考慮した完璧な策です。
 似たような理由で、としましたが本当はこの先を考えると、私たちは途方もないくらいに心細かったのです。

 シヨウより一回り小さい部屋の、一回り小さい寝床で今夜も添い寝をします。広さの関係上、添い寝とは呼べない密着度かもしれません。いずれにせよ、温かい毛布の中で打ち震えていました。
 最初は胎児のように体を自分で抱え込んでいたシヨウだったのですが、ものの十分もしないうちに私の背中に腕を回してきました。無下に扱う訳にもいきませんから、自然、私も彼女の背中へと手を動かしてあげます。
「寒いのですか?」
「そんなのじゃない」
 台詞こそ甘えていますが、口調は凛としています。ですが口を開けば開くほどに私を締め付ける手はどんどん強くなっています。
「シヨウ、ちょっと痛いです」
「……っ、ごめん」
 こうして夜の闇に紛れていると、目に映っていたはずの何もかもが消えて失くなってしまう感覚に飲み込まれるようでした。私が痛がっても、反対にシヨウが痛がっても抱きしめる腕を放さなかったのはそのせいでしょう。
 滲んでくる涙を拭えずに、ただ私は色の消えたシヨウの髪に顔を埋めていました。
「ねえ、私が見ていた映画、あるでしょ」
「私も一緒に見たあれですか」
「映写室には映画は一本しか残っていなかったわ」
 恐らくシツさんの手によって現金に変えられたのでしょう。骨董品と呼べるほど古い年代の映画関連品もいくつかはあったはずですから、貴重な収入源になったと思われます。となると、生き残ったあのつまらない映画は驚くほどに全く価値が無かった、という認識で良いのでしょう。監督も役者も知らない人ばかりでしたし、多々有り得ます。 「で、あの話の筋書きは覚えている?」
「筋書きと呼べるかどうか。父の残した財産を、相続で争っているうちに全部使ってしまった。大まかな流れはこれであっていますか?」
「間違ってはいないわ」
 ボイラー室爆破用の爆薬だの度重なる収賄のための資金だの、遺族たちが好き勝手に使うので、たくさんあった札束も最後はいぬまんまに入れられる一切れだけになっていました。私は単なる無駄遣いの物語と思っていたのですが、シヨウには別の物に映ったのでしょうか。それこそ熱中し繰り返して見たくなる何かに。
「本当はね、あれは私たちの物語よ」
 くぐもった静かに声で付け加えます。雲行きが怪しくなってきました。押し付けていた頭を髪から少し離し、聴く体勢をつくります。
「もちろん現実の誰もボイラー室を爆発させたり、犬を飼ったりなんかしていない。だけどあれは私たちよ。そして登場人物の一番の失敗は財産を分割させたところね。子どもが多すぎるのよ」
 分割させた財産に、多すぎる子ども。私ですらシヨウの言いたい本質が薄っすらと分かってきました。
「お爺様の代には、館を満たせるだけのモノが溢れていたわ。でも皆自分の財産を使って世間の荒波へ。挑戦が悪いなんて言わないけれど」
 シヨウは何の抑揚も込めず、父母兄姉たちの行動を思い返していきます。祖父が残した財産を不平不満が起きないよう均等に分割したため、あっという間に空になった遺産。せめて家長だけに相続させていれば、現在も家族全員で館を賑わわせて居られたでしょうに。むしろ相続された財産だけでも、シヨウ個人が平穏に一生を終える事はできたのです。
 登場人物で喩えるなら、私たちは廃墟に居付いた最後の犬でしょうか。残った財産をいぬまんまにして食べてしまった犬です。
「シツもあれはあれで、なかなか気の利いたことをしてくれるわよね。ダイイングメッセージ……って死んでないけど」
 自嘲の響きを鳴らして、大きく肩を揺らしました。
 シヨウの体温が再び胸の辺りに感じられます。
 さらに止まったままだった後、ゆっくりとシヨウが頭を揺らしてきました。首を曲げてこちらを見ている気配がします。
「そういえば今日は私に失礼はなかったね」
「まさか、朝寝坊しましたよ」
「ちょっぴり起きるのが遅れただけだから失態のうちに入らないわ、というおおらかな理由で特別に許してあげる」
 シヨウの言葉にほっとしながらも、私は明日はちゃんと起きますよ、と口を動かしました。呂律が回っていなかったので、うまく伝わったかは分かりません。いまはもう分かりません。


 突然シヨウがお腹を揺らしてきたので、何事かと思いました。とっさに締めていた腕を緩め、失礼しましたと謝ります。
 ですが彼女は答えず、枕元に転がっていた目覚まし時計を差し出してきました。蛍光塗料の緑色がぼんやりと光っているので、時刻が午前零時を過ぎたくらいだと分かります。
 朝になって叩き起こされたのかとも考えたので、いささか拍子抜けです。こんな時間に起こすとなると、やはりお手洗いに行きたくなったのでしょうか。シヨウは私の手から時計を取り上げると、これまた黙りこくってベッドをするりと降りました。扉に向かって歩く衣擦れの音がしないので、私を待っているようです。寝ぼけた顔をこすりながら後を追って、シヨウの手を握りました。
 シヨウはずんずんと進んでいきます。数時間が経っているので、外からは満月の明かりが照らしています。ぼんやりと青白く光る廊下の中を無言で歩き続けました。お手洗いとは反対の方向です。
「三六五四日目にして」
 堅い扉の前で、ずっと噤み続けていたシヨウがようやく口を開きました。ただ訝しがって次の言葉を待つと、「やっと失礼をしなかったわね」
 つい数時間前にした会話をもう一度繰り返しました。彼女の意図を図りかねます。寝ぼけている訳ではないのでしょうが。
「もちろん。三六五四日以上前からシヨウのメイドでしたから、これくらい当然です」
「私が許したからでしょ。でも、そっか、赤ちゃんの頃の私を知っているものね」
「その時私は三歳ですよ、あんまり覚えていません」
 シヨウが軽く笑った気がします。赤ん坊の頃の無邪気な笑いではない、もっとおぞましい、
「貴方の台詞でようやく確信が持てたわ。
 貴方はメイドであってはいけない」
 はっきりと妖艶な形に口を吊り上げて。


 広間の観音開きをそろりと、しかし躊躇わずに開けました。結んでいた私の腕を振り払って、両手で扉を押します。目の先には館の家具たちが表情無く横たわっていました。山の前へシヨウは歩いていきます。そしてちょうど月光の当たる位置で止まります。上も下も着ている服はしわくちゃになって色まで区別がつかなくなっていました。
「シヨウ、先ほどの言葉はどういう意味ですか」
「どういう意味も、そういう意味よ。メイドなんかとっとと辞めて一般的な女の子に戻りなさい」
 私に背を向けたまま喋っています。
「お嬢様。では理由を聞きましょう。まさか首が回らなくなったから首にする訳ではないでしょうね」
「なんだ、説明いらないじゃない」
 手間が省けたわ、とスカートが舞い上がらないように振り返りました。
「昔から給料なんて払ってくれなかったじゃないですか。私だってそれを承知で仕えていたんです。だのに今さら!」
「さらりと酷いわね」
 苦笑しながら口を挟んできました。思わず私の反論も止まります。
 月光をスポットライトのように浴びて、シヨウは劇役者のようにつらつらと言葉を繋げていきます。彼女が何かを言うたびに周りの埃が舞い、綺麗な細雪の演出となっていました。
「貴方なら言ってくれると思ってた。給料の話じゃなくてね。
 明日から公園に住むっていったら、きっとダンボールを二人分の広さで用意してくれるでしょう。ただしね、それでは駄目。
 私、最後の三日間で気付いたわ。馬鹿よね、赤ちゃんの頃から一緒だったのに。
 この先、私はお金という力無しに生きていかなくちゃならない。元から無いも同然だったけど、これからは庶民諸君以上の借金地獄だわ。だから私はその事実から逃げる。言葉にならないくらい豪快に逃げ切ってみせる。
 だってそうでしょう? 今の今まで深窓で育った私が一円でも稼げると思う? そんな苦労をするくらいなら、逃げて逃げて、溜まりに溜まったマイナスをゼロにまで無理矢理戻すわ。どうせこの館の存在なんて、町の人ですら知らなかったのよ。余裕で逃げ切れる。楽勝すぎてヘソで鍋が沸くわ。マイナスから出発するより、ゼロから始めたい。弱い人間らしい発想でしょう!
『意気地なし』って言いたげね。まあ最後まで聞きなさい。捲土重来、しっかり挽回するから。
 逃げるなんてのは日陰者の生き方よね。誰が影になるものですか。方法なんていくらでもあるわ。どっかの賢いお金持ち様に別荘として洋館を貸し出したりすれば小金にはなると思う。アカリも家事手伝いとか、そういうアルバイトがあるでしょう。喫茶店という選択肢もあるわね。どちらにしたってアカリなら完璧にこなせるわ。折り紙つけたげる。家だってこんなだだっ広い洋館なんていらない。アパートとかで私は満足。水と電気とガスが通ってるのならね。というか貴方が居ればいいわ。私は高校に行くための学費をアルバイトで稼いでから、浪人生という肩書きで入学してみるわ。中学の成績はけっこう良かったの覚えているわよね。
 と、此処まで考えて思ったの。アカリはそれでいいのかなって。この考えに至ったのがつい一時間と七分、あら、八分になったかしら、くらい前ね。
 こんな程度、もっと早く気付かなきゃいけないよね。いけないよね。ずっと傍にいてくれたんだから、自分の身よりも早く考えなきゃいけなかった。だって、水道とか電気とか……公共料金の支払いを辞める前から、貴方には一銭も支払ってなかったのよ。いくら契約だからって、よく働けたわね。
 ところで契約にしても、本当は私の年齢が一桁の時に破棄されてたんでしょう。館からついに家族全員が居なくなった日。いっぱい居た使用人も、シツとアカリだけを除いて綺麗さっぱりだったわね。あの日もがらんとした洋館が怖くて貴方に添い寝してもらったっけ。話しているうちに思い出したわ。
 そうそう、庭のブランコ。あいつも間違いなくあったわ。アカリが買い物に出かけている間にこっそり作って遊んだのよ。でもやっぱり、貴方とじゃないとあんまり楽しくなかったのね。アカリに背中を押される妄想なんかしてたでしょ、私。
 話が逸れたわ。で、契約にもないのに好き好んで館に残ってしまった貴方たちだったけど、いつのまにかシツまで消えてしまってるじゃないの。
 おっと、責める訳じゃないからね。シツがいたら借金返済に加えて介護までこなさなきゃいけないし。それにお互い距離を置いている方が、あしながおじいさんよろしく私に援助してくれるかもしれない。一緒に居たらタダの足腰立たないおじいさんよ。
 シツが普通なの。人間臭いじゃない、あの人。部屋中の小さい家具が持ち出されたりしていたけど、間違いなく爺さんの仕業よね。私たちの生活費に充てたのか、自分の逃走資金に充てたのか。どっちだって良いのよ。肝心なのはこのまま死んでたまるか! という気概でしょ? 借金ごときに潰されてしまう訳にはいかないから、足掻いてみた結果に小さい家具の売却よ。足腰が立っていると言えるわ。
 ちなみにこれは名誉回復のため。出所不明のおっ被った借金だけど、間違ってもシツが悪いわけじゃないからね。映画のストーリー通りなら、あれは父と兄と姉がこしらえたものよ。全くお父様もよくあんな変な映画持っていたわよね。ただ持つだけで、あれから学び取らなかったのかな、私ですらヒントになったのに。
 いま私、家族のせいにしちゃったわね。あんまり良くないわ。だって本当は証拠がないんですもの。執事室の机には何も残っていなかった。シツが書類を持って出かけたのよ。こうなったら誰の分をどこに幾ら返すのか判らないじゃない。イヤになるくらい相手から教えてくれるかもしれないけれど。でももしかして、シツはあえて私たちが判らないようにしたんじゃないかと思うわ。本当に人間臭いのよ。死ぬまで尽くすタイプな人間の鑑ね。シツなら現状の問題はなんとかしてくれる気がする。部下の、いえ好きな家族の行動くらい読めるわよ。
 というわけで私も見習って、さっき言った前向き二人暮らし計画を構想してみたの。私に尽くして努力してる人に向かって、お尻を向けるなんてできないじゃない。だからゼロに戻すんじゃなくて、プラスにする勢いで生きてみたいな、という発想からよ。
 ……でもね、いくら足し算でプラスにしようとしても、相手がもっと大きなマイナスを持ってきたらどうなると思う?
 具体的に言いましょう。私は家族の行方を知らない。シツが教えてくれなかったところを見ると、彼にすら所在は正確に掴めなかったのよ。
 映画じゃ遺産が消えて完結だけど、私たちは完結できない。元家族は私の居場所、動向、財産の切り崩し方、全部知ってるわ。下手をすると今後は事あるごとに、死ぬまで暮らせるだけのお金をスられ続けるわ。身に染みる前例だってある。
 こればかりは二人で一緒に住もうと、最後まで付き纏う命題になってしまうのよ。
 さて命題の中にも優先順序があって一番厄介なのがアカリ、貴方よ。厄介って悪い意味じゃなくてね。繰り返すけど、進もうとしている道は際限なく湿っぽいわ。この件に関してはお金だの契約だの、みみっちいレベルの話をしているんじゃない。お金だの契約だのが無くても付いてきてくれるのはもう知っているしね。
 だからこそなの。皆から忘れられる生活よりも、素直に私を忘れて生きて。もっと言うなら近い将来、誰かの嫁に貰われた方が貴方の幸せになるかもしれない……最初からこう言うべきだったわね」
 ふうう、と長い息を吐いてシヨウは締めくくりました。
 私は身じろぎもせず、シヨウの胸のうちを聞き届けました。彼女の主張はつまり、最後の一文に集約されるでしょう。嫁に貰われる未来は反論できませんから、選択肢の一つだと言えます。シヨウを姉妹と言い張れば、不審に思わないで接してくれるでしょう。ですが嫁に貰う、というのはやんごとなき事情があった結果の結婚であって、最初から目指すのは可笑しい話だと思います。シヨウと一緒に暮らしていて、気付いたら家族が一人増えていた、それが私の理想なのです。
 色々と考えましたが、目を瞑ってから「それこそみみっちいですわ」とだけ言い返しました。
 私の一言にシヨウは面食らったらしく、二三荒い息を吐くと唇を濡らしました。
「やっぱり、やっぱりそう言ってくれるのよね。嬉しいわ。
 じゃあもう一回訊くけど、私と一緒に居るようなメイド、辞めない?」
「嫌です」
 言葉を交わしたシヨウの顔は、しかし全く嬉しい風ではありませんでした。瞬く間に剣幕を取り戻し、慎重に文句を選んでいきます。ただし今度の剣幕は私を脅すような、自分自身に言い聞かせるようなものではありません。
「メイドがなんで『メイド』か分かる? あれはね、人の在り方を示しているの。象形文字だったかしら。
 メは両手を広げて主人を受け入れるメイドの心。
 イは上にいる主人と、それを陰で支えるメイド。
 ドは万事に礼儀を欠かさず、お辞儀をしておもてなししている姿。濁点は漫画でいう動線ね」
 月明かりが消え、再び漆黒に沈んだ場所から声が響きます。シヨウが言葉を止める度、雨がガラスを叩く音がしました。「何度も」
「何度でも繰り返してあげるわ。貴方はメイドでは有り得ない。
 主人を受け入れるどころか、失敗を私に受け入れられている。
 陰で支えるどころか、対等であろうとしている。
 だから礼儀も欠かしている。反省はしてないし、呼び捨てしているからね。
 どう? これでも貴方はメイドだと言い張るの」
 シヨウの言葉が、私に重く突き刺さります。最前の私に見せた愛、は何だったのでしょうか。シヨウの言う通り、彼女が私を受け入れていただけだったのですか。
「言い返せないようね。そうよ、アカリはメイドではない。
 だから……『メイドさん』になりなさい」
 いつの間にか私の前に立ち、今日で一番透き通った声を張り上げて、そう告げました。
「メイドさん、はメイドではないわ。受け入れない、支えない、もてなさない。ないない三昧。大事な要素が一つも満たせてないわ、恥を知りなさい。
 でも、一つだけ、メイドには無くてメイドさだけにあるものがある。
『さん』よ。サン、つまり太陽なの。
 両手を広げるにも及ばないから、受け入れる受け入れないの小さい問題ではない。包み込むとさえ言えるわ。加えて陰で支えない。太陽が陰ってはいけないからね。そして頭を垂れてもてなさない。無礼な奴だと言われようが、頭上で燦燦と輝いているの」
 呼吸を整え気高く胸を張り、
「全ての影にいる人たちを照らすように、どこにいても誰が見てもその存在に気付くように、またいつか雨空が晴れ渡ると信じる全ての人の為に、紛れもないまごころの『メイドさん』に、貴方はなりなさい。これが、一時間と八分前に気付いたこと。
 太陽は、私に足りなかったもの。室内で暮らす私に関係なかったもの。これから日陰者の道を歩んでいく私も、いつか」

 ついで懐の中からライターを取り出しました。お父様の使っていたもので、手を離しても火がついたままである高級なものです。
 指がゆっくり動いて、フリントホイールを擦ります。火が点きました。
 風もないのに火はゆらゆらと揺れています。けれど私は足が動かず、じいっと見つめていました。
 このとき、炎に照らされて、はじめてシヨウが泣いていることを知ったのです。

 いつか太陽が照らしてくれたら、私は気付くから。会いに行くよ、アカリ。

 そう口が動いて、ライターを放り投げました。まずは黴臭かった毛布、次に乾燥した空気の中へと炎が広がって、木でできた家具といわず館といわず、あっという間に嘗め回していきます。
 夜かつ、森の奥ですから市民の対応は遅れたでしょう。館から広がった火はかなり広範囲に渡って木々を炭に変えていくはずでした。幸か不幸か雨が降っていたのと、古い館がすぐに崩れたため、被害は周りに広がらなかったのです。
 シヨウの姿は落ちてきた柱に遮られて見えなくなり、そして永遠にそれっきりでした。
 死体は見つかりませんでした。




 長話になりました、紅茶が切れていますね。お注ぎしましょう。当喫茶店のサービスですよ、三杯目からはお金、取りますけど。
 さて、ですから、カラーコンタクトでは無いんですよ。
 私はなれたのでしょうか。メイドさんに。自分では気付けないのです。
 あのときもし、身体が動いていたら。炎の影に消えたお嬢様の細い手をもう一度掴んでいたら。
 今でこそ後悔できますが、あのときの私は炎を受けて「少し暖かいな」と思っただけなのです。
 館が倒壊して燃えるものも無くなって全部炭になったあと、森の中にぽっかり空いた禿げた地面の広間にへたりこんで孤独の夜気に震えたのです。
 でも、今でも、目はこんなにも赤く、あの日の炎が一向に眼前から消えません。太陽は赤い物で、私も赤くなったのに、自分が太陽かは分からないのです。だから、いつになったらシヨウに会えるんでしょうね? ご主人様。
「アカリちゃんて出身はどこなの?

おあいそお願いします」
 私がご主人様とお呼びした、脂っぽい青年は注文のオムライスも残して、お会計を済ませてしまいました。オムライスと一緒に残された私は、「アカリくん、ちょっとお話しましょう」と喫茶店の店長に手招きされました。まだ客も多い休日の昼間なのに。
 勧められるまま入った店の奥にある小部屋で、二人で話し合いをします。ダンボールが高く詰まれた、小汚い部屋です。そういえば、アルバイトの面接をした時もここでした。回想していると、間髪入れずに店長が沈黙を破りました。
「ここはお店なんだ。あんまり変な話はしないでよ」
「ですが、出自を訊かれたものですから」
 はぁ、とわざとらしく息を吐いて店長は答えます。
「あのさあ、ここに来たときも言ったよね。頼むから具体的な身の上話はヨソでやってよ。仕事は仕事。ね、本当にメイドさんだったんなら分かるでしょ?」
 唾が飛んできました。
「分かりかねます」
「ああもうガマンできねえ! そんなら辞めてくれてけっこうだ! こっちは客商売なんだよ、これ以上やられても迷惑だ。ほら、今日までの給料は現金で渡すから」
 痺れを切らせた店長が、自分の財布から万札を数枚乱暴に取って寄越すと、らちの明かない私をたたき出しました。忙しい書き入れ時に、妙な噂なんて撒き散らされたら大変だからでしょう。私にだって、それはもちろん分かっています。
 とはいえ、
「これで何度目でしょうか」
 お店の更衣室で肩を落とすと、言葉が自然と漏れてきました。
 あれから行く先々である特殊な喫茶店をアルバイトとして渡り歩きましたが、いつもこのような感じですぐに厄介払いされます。
 お客の中には踏み込んだ質問をしてくる人もいます。そうした人から手がかりを得たいと、私はいつもシヨウとシツと私の話をしてきました。結果は先の通り、予想外の答えに気味悪がられて店の売り上げを減らすばかり。職歴としては全く長続きしていません。
 更衣室に入ったものの着替えたりはせず、自分の荷物を掴んで足早に立ち去りました。本当は(少しの間ばかりでしたが)一緒に働いた同僚に挨拶したかったのですが、こう盛況では憚られました。
 制服であるメイド姿のまま、街を歩きます。
 今いる街は昔いた町と違って、だいぶ賑やかです。道行く人たちもメイド服程度では大して興味を惹かれていません。歩きやすいですが、鉄筋とガラスの高層ビルばかりなので息が詰まります。
「もっと安心できる場所に戻りたい」
 と感じるのは自然だと思います。
 足を止めて小さく息を吸います。ポケットには、店長から押し付けられた給料の札束。一枚あれば、電車賃は足ります。
 居を構えているのは駅とは反対側ですが、別段用事もありません。取りにいくような荷物も、置きに戻るほどかさ張る荷物もないからです。
 もう一度、今度は深く息を吸いました。

 電車を何本か乗り継ぎ、とうとう思い出の町に辿り着きました。
 最初に切符を買ったときはまだ夕方でしたが、今でも存分に夕方です。都会から離れた静かなベッドタウンだけあって、交通の便は悪くありません。
 買い物によく使った道を歩いていきます。
 誰も漕がないブランコ、客のいないラーメン屋を通り過ぎて、ついに町の外れまで来ました。行く途中、何度も何度も何度もシヨウとの思い出がフラッシュバックしていきます。彼女と町まで来たことは数えるほどしかありませんでしたが、頭に浮かべられる情景は数え切れないほどあります。
 この町の人は恐らくメイド服を全然見慣れていないので、すれ違うたびに私の顔を不思議そうに覗き込んできました。
 時間をかけて歩を進めるうちに、日もだいぶ傾いてきました。いまは、橙に染まった雲ひとつない空が広がっています。面前には季節を経て、元気を取り戻し青々と茂った針葉樹の木々たちがあります。
 風に吹かれて左右に振れています。私をあざ笑うかのように振れています。
 ぼうっと突っ立って眺めて居ると、彼らが何故本当に私を笑ってくれていないのか、たちまちのうちに堪らなく無念の情が湧いてきて、やりきれなくなりました。
 知らない間に整備されていた街灯がやがてぽつりぽつりと輝き始め、私の意識もそちらに向きます。
 とはいえ流石に森の中までは設置されておらず、あちら側だけは別世界のようにこう着しています。これ以上遅くなるのは嫌なので、いよいよその世界へ進もうとしました。
 砂利道を、ちょっとだけ高価なローファーが踏みしめていきます。
 昼間の熱気がまだ残っているのか、今日はメイド服一枚でも背を丸める必要はありませんでした。
 シヨウは許したと言っていたけれど、私はもっとずっと失敗を重ねてきました。そのどれも挽回できたと思えませんし、これから先チャンスがあるとも知れません。
 何より最後の最後にあった不始末は大きすぎて手に負えません。だからシヨウの後を追って逃げ出したい。果たして逃げるべきか逃げざるべきか、どちらに進めばシヨウに行き着くのですか。
 ふいに、さらさらと伸びた金髪、柔らかくこちらに視線を向ける瞳、閉じられた小さい手が木立の中に見えました。
「アカリ」
 と風に乗せて囁きます。
 しかし人影はおろか、生き物の気配すらありません。葉っぱがそよいでいるだけでした。きっと、私の神経が過敏になっているのです。
 首を振ってからまた歩調を速めると、今度は急かすようにして奥を目指し続けました。
 そしてついに家があったであろう場所まで至りました。整備する人も居ないので草製の大広間は荒れ放題ですが、間違いなくここです。館が建っていた範囲には木が立っておらず、加えて中央にある妙なオブジェが言葉も発さないで、力強く語っています。
 崩れ落ちて炭化した木材が無残な姿で取り残され、その下から雑草が生えているのが分かります。当然ながら、それらに人が訪れた形跡はありません。
 服のポケットから、お店で失敬してきたピンクのロゴ入りガスライターを取って火を点けます。
 頼りない火がゆらゆらと灯りました。明かりがなかったので、石や木の根っこにつまずかないよう足元を照らしながら傍まで近寄ります。
 近々シツさんと別れてから半年になります。音信はありませんが、数ヶ月前に「更なる借金の心配はなくなりました」と丁寧な文字で書かれた葉書がポストに投函されていました。差出人不詳で切手は貼られていませんでした。
 併せてシヨウと別れてからも半年になりそうです。連絡はありません。
 炭を二三度手で払い、もろくなっていないか確認します。大丈夫そうでした。しばらく歩いて疲れを感じたわけではありませんが、そっと腰を下ろしました。
「ここに来れば、何か起こると思ったのですが。実際はそう変化が起こるものではありませんね」
 ぽつりぽつりと独り言がでてきます。止めようかという考えがちらりと頭をよぎりましたが、誰かに聞かれるはずもないので、再び喉を震わせました。
「シヨウ、世間じゃ貴女は死んだことになっています。もう姿を見せてくれたっていいじゃないですか」
 大きく一息。それから、出歩くときは常に持っている新聞紙を、手提げ袋からつまみあげました。
 赤のラインマーカーで囲まれたわずか三行ばかりの記事には、かつての名家の末娘が焼死したことが簡潔にまとめられています。出火原因・他の被害者の数も含めて定かになっていません。
 それをガスライターの光で読み直したあと、くるりと丸めて自立できるようにします。こうすれば炭の間に突っ込めるでしょう。
 隙間を探してからそのようにしてみると、趣味の悪い墓標にしか見えませんでした。
 無表情のまま改めて墓標の前に座りなおします。
 頭上では、太陽はおろか月も昇っていませんでした。ただまばらに星屑が散っています。散らかった屑は掃除するのがメイドさんたる私の務めですが、どんなに頑張ってもそこまで手は届きませんでした。
 だけどまだ、私は信じることができていません。
 太陽になれと仰っていたけれど、本当は直ぐ傍に並ぶ家族になって欲しかったのではないですか。名前を呼び捨てにまでして、寝食もずっと共にして、姉妹のように振舞うことを求めていたのに。
 茫然自失としている私の耳にがさがさという物音が聞こえてきました。生き物が、それも人が歩くときのような音です。
 それは老いた木材が地面に落ちて転がった音だと気付くまでに、あまり時間はかかりませんでした。






オリジナル
トップ
inserted by FC2 system