空時計




 空は淡いグラデーションをかけて青く澄み、雲ひとつ浮かんでいなかった。風が時々吹く程度で、秋の始まりにしてはずい分と過ごしやすい日和だった。秋空、こんな日は久しぶりで、校舎の屋上で過ごすのに限る。
 屋上には僕たちの他にもちらほらと人がいたが、それぞれ自分たちのグループで固まっておしゃべりしている。僕は友達の啓海(あけみ)と過ごしていた。昼はこうして彼女が本を読み、僕が横で空を見上げるのが習慣だった。
 空に巨大な時計が浮かび上がるまでは。
 9月1日……つまり三週間ほど前、地球の空にそれはそれは大きな時計が出現した。世界各国はもちろん混乱したし、新聞でも一面に取り上げられたと思う。飛行機が欠航続きになったり、首脳陣は敵国の攻撃かと緊張したり、科学者は徹夜で研究に勤しんだりしたはずだ。同じ週の土曜日は辛うじて晴れたものの、それ以降はずっと曇天か雨天が続き、みんな気味悪がっていたものだ。
 ところがいまや飛行機は時計の文字盤に飛行機雲を撒き散らし、市民には空時計の愛称で呼ばれ始めていた。慣れとは実に恐ろしい。僕個人としては、「時差はどうしてんだろう」というぼんやりとした疑問を抱えたまま今に至っている。
「昼休みが終わりかけたら起こしてねー」
 本を読むのにも飽きたのか、啓海が高らかに宣言して寝始めた。弁当を食べた昼下がりだ、無理もないだろう。適当に相槌を打っておいた。
 さてその空時計だが、カメラや観測機器には一切映らず、科学的な解析の手がかりは掴めなかった。代わりに衝突する危険もない。夢か幻か、地上にいる人の目にしか映っていないとのことだ。そんなことがあって、あんなに騒がれた謎のオブジェも今や腕時計の代わり扱いとなったのだった。
 科学者にだって正体が掴めないのだから、一般人たる僕らがどうこう出来る物ではない。
 時計の長針と短針は13時5分を示している。もしかしたら午前の1時5分のつもりかもしれないが、アナログ時計にそこまで求めるのは無理というものだ。ともかく昼休みはあともうちょっとだけ続くようだ。こいつは日本標準時を正確に刻んでくれるから都合がいい。
 このままの格好でいると首が疲れるだけなのだが、僕は携帯電話を取り出して空にカメラを向けた。

 空は青いグラデーションをかけて青く澄み、
 そしてただ青かった。
「やっぱり青空はいいなぁ……」
 思わずひとりごちてしまう。ご他聞に漏れず、ちんけな電子機器如きではあの空時計様は捕らえられないのだ。このままオートフォーカス越しに青空を見るか、それとも電池がもったいないのでいい加減降ろすか、ちょっと悩んだ末に横の啓海にカメラを向けた。無防備に寝息を立てる彼女に、顔認証システムの四角いマークが浮かぶ。そして……
「撮ったのかよ!」
「なんだ起きてたのか」携帯電話を畳みながら答える。
「今のは私の声じゃないよ。まあ、起きてたけど」
 と言いながら僕の手から携帯電話をひょいと取り上げた。撮られた写真を消すつもりだろう。
「ひどいや」
「ひどいのはあなたでしょ。まったく、写真に撮られるのは好きくないんだからさー。
 ……にしても、ほんとに見えないもんなんだね」
 ごちゃごちゃ言っているうちにもう消し終わったようだ。さっきの僕みたいに、携帯をカメラモードにして空を覗き込んでいる。今の言葉は時計のことだ。
「そうだね。ま、写真にでかでかと居座られても嫌だけど」
「ふふーん、つまり『俺の空は永遠のもの! あの時計が映す“今”という時刻が刹那的に立ち塞がるのすら無用であり長物なのだ! とっとと失せろ、ベイビー!』と、言いたいのね」彼女は携帯を返してくれつつも楽しそうに言った。
「そこまでは言ってない」つられて僕も楽しそうに。
 とはいえそこまで好いてはいない、かも、しれない。何の機械にも映らないのはかなり奇妙だし、そのくせ人の目にはバッチリ見えているのは薄気味が悪かった。「高度に発達した科学は、魔術と見分けがつかない」なんて言うが、せめて科学技術の粋を集めてみたのか、黒魔術の詠唱をしているだけなのか、自分の肩書きくらいは教えてくれないと理不尽だ。
 ひとしきり笑いあっていた僕らだったが、
「そうだ、古いカメラ!」
 彼女が突然切り出した。
「えっと、暗室?」
「暗室は使わないよ。確かに古いカメラなんだけどね」
 大切なことを思い出した様子でこちらに話を振ってくる。一体何の話なんだか。
「話が見えないよ。だいたい写真は嫌いじゃないの?」
「撮られるのはね。それはともかく、父さんが押入れから引っ張りだしてきてさ、ほらフィルム使うやつ」
「古いカメラか。うちではもう捨てたんじゃないかな。で?」
「あれを使えば撮れるんじゃないかな?」
「何を?」
 啓海は空を指差して、はっきりと答えた。「空時計!」
 次の瞬間、昼休み終了の鐘が鳴った。

 六時間目の授業をうとうとしながら受ける。自慢じゃないが五時間目は寝ていた。五時間目の五島先生は子守唄の名手だから仕方が無い。そして六時間目の六ツ島先生は、もごもごとした口調で教科書の内容をなぞっては思いついたように板書していた。陽の陰になっている席に座って、寝ぼけ眼の僕は啓海の言葉を思い返していた。
 いわく、空時計がうまく映像にならないのはデジカメとかビデオカメラだとか、電子機器だからである。フィルムカメラなら電子部品は無いような気がするから、あわよくば写ったりなんかすると嬉しいな。
 概略はこんな感じだ。僕だってカメラに関して特別知識があるわけではないので、実際にどうなるのかは見当も付かない。自分で試したこともないし。
 いくらなんでも単純な発想だから、とっくの昔に誰かが実行していると思うのだが。
 ふと気付けば、六ツ島先生がふらりと窓の方に立ち寄って空を見上げ、そして小さく頷きながら授業の終わりを告げていた。クラス中が先生のもごもごを解読しているのをよそに、当の本人はちゃっちゃと引き上げていった。これにて今日の授業終了だ。いつもならクラス担任の担島先生がすぐにやってきてホームルームを始めるのだが、今日に限ってなかなか現れない。代わりに僕の席には啓海がやって来た。
「もう、さっきの休み時間に話そうと思ったのにー」
「ごめん寝てた」
「知ってる」
 授業間の休み時間なんて、あまり長くはない。それでも話したいこととは、よほどのことなんだろう。だいたい予想は付いているけど。
「カメラなんだけどね、父さんに言えば貸してくれると思うんだ。だから今夜撮りに行こうよ」
「いくらなんでも早速すぎるだろ」
「善は急げってやつだよ。いつものところでいいよね?」
 やっぱりだ。予想通りだ。
 何か言おうとしたが、担島先生が今さらになって教室のドアを開けたので言いそびれてしまった。
 短い諸連絡だけがあって、すぐにホームルームは終わりになった。ちょうどいい啓海に話を、と思ったときには遅く、啓海はもう教室を飛び出していた。
 コンビニに行く、と言って家から抜けてきた。「空を見に行く」でもよかったし、これまでだって空を眺めるために飛び出したりもしていた。ただ時計が現れてからは回数も減ったのだ。減ったどころかゼロになったと言ってもいい。今さらそんなことも言えず、本当にコンビニへ買い物があったので言わなかっただけだ。
 日もすっかり沈んできている。コンビニに掛かっている時計によれば8時を回る頃合だ。インスタントカメラを買って出る。ここから15分も歩けば、東屋が建てられた丘に着く。
 この前まではあそこで首を上向けていたのだ。お年玉を貯めて買ったデジカメで毎日ひとり撮影会もしていた。大空を見ていると、雨だろうが曇りだろうが、昼夜を問わずとにかく感動するような子どもだったのだろう。丘でずっと自分だけの秘密の場所として好き放題やっていた。条件さえ揃えば、今でも一日潰せる自信がある。
 いつからだったか、僕の横には啓海が並ぶようになった。最初はお気に入りの場所に上がりこんできて何様だ、と思っていたけれど、知らないうちにすっかり馴染んでしまったっけ。と言っても、僕は一言も口を聞かずにいるし、彼女は彼女で何か本を読んでいる(暗いので目が悪くなるんじゃないかと思う)。今年に入ってから啓海は土曜日にしか来なくなった。ロマンチックの欠片もないと思う。

 丘にはまだ誰も来ていなかった。東屋の屋根と、少し背の高い雑草群と、それらに囲まれた正方形をした木製ベンチだけが出迎えてくれる。
 時刻は8時17分。光っているわけではないが、夜でも空時計はしっかりと目に入ってくる。この理不尽さが嫌いで、ずっとここへも行かなくなったのだ。啓海も僕がいなくなった分だけ広々とした空間を満喫していただろう。彼女がいない分だけ広々としたベンチに寝転んで、僕は待ち続けた。
 虫の声と草木の揺れる音だけがする。この音は丘の下に広がる人家には届かないだろう。しかし人家の賑わいの声もまた、ここには届かなかった。ただ光だけが漏れ出て、中にいるであろう家族たちの団欒が思われた。その人家は地平線いっぱいに広がってひたすら綺麗に見える。
 折角だからインスタントカメラで撮っておこうか……。僕はレジ袋を音を立てて漁り、目当ての品を拾いあげた。そのまま包装のビニールを破いて緑と黒のカメラを取り出す。さて、と一声かけて、カメラの小さなレンズを覗き込み、人差し指をボタンにかけ、
「……こういう場合ってフラッシュ焚くのかな」
 アナログなカメラはほとんど触ったことがないので、僕はそのまま一瞬フリーズしてしまう。デジカメなら夜景用自動ナントカ補正で綺麗な思い出を残してくれるだろう。待てよ、第一フラッシュを焚くときってどこをどう触ればいいんだ。こんなとき啓海なら一も二も無くカメラを奪い取って、10枚程を試写に費やすんだろうな。
「珍しいね」
 レンズから顔を離し、声の方を振り向くと啓海が立っていた。何故か学校指定のジャージ姿だ。部活動が終わってすぐ来たのかな。
 それはともかくとして、珍しいとは物言いだ。この場所に来るのは数十日振りかもしれないけれど、誘ったのはそっちじゃないか。
「珍しいって、何が?」
 彼女は持ってきたカメラと缶コーヒーをベンチに置いて、やっぱり持ち直して自分がそこに座りながら答えた。
「カメラよ。今日はデジカメじゃないんだ?」
「ほら、これもフィルム使ってるだろ? 確か。たぶん」
「たぶんね、確かそうだったと思う」
 彼女が手に持つカメラは、機種名とかは分からないがとにかくディスイズカメラ! という感じのカメラだった。水族館とか博物館とかにある「撮影禁止」のシールに描かれているカメラからデザインしました、と言われても納得できるカメラだった。
「お互い写るといいんだけどね。写ったら大発見だよ」啓海がカメラをいじりながら切り出した。
「そうだね」
 僕は上の空で答えながら、インスタントカメラを上に向けた。レンズからは、空時計の長針が32分頃を指しているのが見える。さて、記念に一枚。
 レンズからは見えるんだね、とか気の利いたことを言おうとしたけど、「あれもう撮っちゃうんだ?」と彼女が驚くので言えなかった。
 啓海はカメラいじりも中断して、目を丸くしこっちを見ている。彼女の疑問も分からなくはない。僕がいつも「カメラに収めるのは厳選した一日一枚」と決めていたからだろう。
「いつものデジカメじゃないし。大発見なら早めに現像しとかないと」
 彼女はなるほどね、と小さく答えて手元に目線を落とした。


 結局、僕は空を見るのも気が滅入っていたし、啓海のカメラにはフィルムがあと一枚しか残ってないことが分かった。久しぶりに二人が揃ったのに、やることはすぐに無くなってしまったのだ。夜ともなると風も寒く、啓海が写真を撮ると僕らはどちらからともなく帰路についた。
 虫の音がいったん止んで、季節を間違えた蝉が泣き出した。



 次の日も晴れた。昼休み、昨日と同じように屋上で過ごしていると啓海がまた寝そべりながらカメラの話をした。
「今日の放課後に現像してくるからさ、どうしよう」
 この場合のどうしようは「いつ会う?」ということだろう。明日は土曜日で休みだ。週明けの月曜日まで待ってもいいけれど、撮った以上は早く確かめてみたいとも思った。
「今日の晩も暇なら、またあそこでいいんじゃないかな」
「うん、分かった」v  啓海は頷くだけ頷くとぷいと顔を背けて、さっさと校舎の中へ戻っていってしまった。
 僕はどうしようか。追いかける理由もなければ、空の見えるここに留まる理由もなかった。屋上にいるはずの生徒の声が遠くの方に響き、制服のポケットにいれていたインスタントカメラが腰を撫でた。
 空時計は13時5分を指している。


 丘に着くころにはすっかり日が暮れていた。最近、すっかり暗くなるのが早くなってきた。これが釣瓶落としというやつだろう。昨日は僕の方が早かったが、今日は啓海が先だった。
 いつも僕が座っていた場所に缶コーヒーと、写真屋の封筒が置いてある。重石にするように例のフィルムカメラも持ってきてあった。肝心の彼女はじっと一枚の写真と睨めっこしている。
「珍しいね」
 こちらに気付いた彼女は焦った様子でこちらに向き直った。暗いので顔色までは分からない。あ、えっと、とかどもりながら漸く口に出した言葉が、
「な、ななな、何が?」だった。
「写真のこと。いつもじーっと眺めたりしなかったじゃないか」
「うん? いつもここで見てるけど……」
 僕が一緒に居たときは、デジカメにほとんど興味を示さなかった覚えがある。何度か綺麗に撮れた写真をプリントアウトしておすそ分けしたこともあるけど、その度に本の栞代わりにされていた。だから写真を注視する姿が物珍しく思えたんだけど。
「まあいいや。ほらこれ、現像した写真」
 啓海は自分が持っていた写真、ではなく封筒の中から真っ黒い写真を取り出した。
 昨夜の空だ。
 肉眼では見えなかった小さな星が散りばめられている。そして、もちろん空時計は写っていなかった。
「やっぱりフィルムカメラでもダメみたいだね」
 彼女が小さく笑いながら言った。
「仕方が無いよ、相手はワケの分からない物体だし」
「そうなんだけどねー」
 言いつつも別の写真を僕の前に差し出した。
「ほら、別の日の青い空。
 さっき確認してたんだけど、ごめん、やっぱりブレてたみたい。慣れないと難しいね」
 ……へぇ。フィルムカメラで撮った青い空は初めて見た。
 僕が見入っているのをよそに、彼女はフィルムカメラを掴み、歩いて屋根の下から体を出した。レンズ越しに空を見上げている。いつかの僕みたいに、「一日一枚」の空を収めようとしているんだろう。
 そういえばインスタントカメラのフィルムは、あと1枚だけ残っていたはずだ。

「私は撮れたよ。さ、次はインスタントので」
「僕は持ってきてないよ」
「……そうだったの、ごめん
 やっぱり、もう撮らないんだ」
 強い秋風が吹き抜けて、空になった缶が少しだけ動いた。


 翌日、つまり土曜日だ。今日は現像できるようになったインスタントカメラを写真屋に出しに行く用事があったが、それよりも大事な用事があったので「空を見に行く」と言って出てきた。
 昨日啓海からもらった青空の写真には、時計は写っていなかった。でもそれは空時計の方だ。ネガから現像したときにできる日付と時刻はしっかりと印字されていた。
『09/05(SAT)』
 空時計が現れてから4日後の日付だ。僕は邪魔者に腹を立てて一度も行かなかったけれど、でも啓海は毎日あの丘に来ていたのだろう。写真を一日一枚撮り続ける習慣まで引き継いで。
 もちろん僕の勝手な想像だ。でももし啓海が24枚撮りのフィルムを使っていて、物珍しさに時計の現れた9月1日からずっとカメラを持ってきていたら、ちょうど僕を誘った木曜日に最後の写真を撮ることになる。
 こういう場合、彼女のとった行動が物珍しさからなら良いんだろうか。それとも良くないだろうか。写真屋に駆け込んで、「出来上がり予定時刻」の10分前に現像された写真を受け取った。
 店から出て気付いたけど、今日も見事な秋晴れだ。


 やっぱりと言っていいのだろうか。啓海は約束もしていないのに丘に来ていた。もっとも、土曜日だから来ているだけかも知れない。
 でも彼女は本を読むわけでもなく、写真を見つめているわけでもなく、カメラのレンズを覗き込んでいる。一日、一枚だ。
 僕は鞄に入れたカメラの写真を思い出す。最初の26枚は空時計を撮ったものだ。でも暗くて、ブレていて、啓海が写していた星すら撮れていなかった。最後の1枚は空と啓海を撮ったものだ。でもやっぱり暗くて、ブレていて、何を撮ったのか分からない出来上がりになっている。
 啓海は写真を撮り終えたようだ。こっちに気付いて手を振ってくれた。
「ほんと珍しい! 今日も、来ないと思ったよ」
「僕も来ないと思ったよ。でも、何も無い空だけじゃなくて……ちゃんと撮ってみたいと思ったんだ」
「そっか、私もだよ」
 いつか、撮れるといいね。上の方で、時計が音も立てずに分を刻んだ。13時6分。これから、しばらく青空の写真が増えていくだろう。









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