靴底




 良平は210円を券売機に入れつつ、早くも遠足の失敗を感じていた。
 彼の所属する中学校は今日、電車で数駅離れた場所で遠足を行うことになっている。戦国時代に建てられた、とある名城がその目的地だった。その某駅にて現地集合現地解散というのが予定のはずである。しかし遠足の、というより良平のそれは足元から崩れようとしていた。


 遅めの通勤男性で混み合う普通電車に乗り込み、空いている吊り革に手をかけると電車は緩やかに発進した。大きく右に身体を反らしつつ彼は自分のサイフの中身を勘定した。そしてすぐに勘定し終わる。そもそも現在の所持金はゼロだったのだ。これでは帰りの電車賃であるところの210円が払えまい。

 自分自身の慎ましさに思わず溜め息をもらすと、電車が大きく一揺れした。そのとき何故か右足が痛み、良平の口からは思わず悲鳴が上がる。
 その悲鳴に反応したのか、彼を背にして立っていた中学生がふと振り向いた。そのまま良平にふらふらと歩み寄って声をかける。
「なんだ、誰の悲鳴かと思えば良平!」
「失礼な、僕が悲鳴をあげてたまるか。そしておはよう」
 つまりは正しく良平の友人である。ばっちりあげていたぞ、と言わんばかりの卑猥な笑みを浮かべてこう続けた。
「いくら良平がビビりと言っても、電車ごときで悲鳴とは……友人ながら情けないね」
「だから鳴いてないって。仮に鳴いたとしても猛々しいまでの遠吠えだよ」
「負け犬の?」
 友人が冷やかそうとすると、またしても電車が揺れた。その一撃に、良平はまたしても嬌声をあげてしまう。
「さっきから右足が痛そうだけど……何かあったの? また異様に臭うっていじめられたんじゃ」
「うるさいやい。これにはワケがあるのだ」
 赫々云々、彼は現在の所持金について詳しく話し、そして最後にだからお金を恵んで下さいと締めくくった。
「右足の説明になってない。……む、500円玉でいい?」
「もちろんだともきゃ!」
 がたんごとん。
 友人は金色に光る硬貨を渡して、呆れたように付け加える。
「何度も言うけどさ。良平、アイツらは足が臭いからいじめてるんじゃなくて、良平のそのムキになる態度が……」
 良平はそれを聞かず、硬貨に対するただお礼だけを述べた。


 件の城には良平の中学校の他にも、いくらかの一般人の姿もあった。城下にある公園で、散歩に来た老夫婦や子どもと遊んでいる若い両親たちが声をあげている。先生たちの遠足の諸注意をBGMにして、それらは妙なメロディを喋っていた。

 遠足の午前中は極めて退屈のうちに終わったようである。どのクラスも事前に適当な人数で適当なグループが組まれ、城内を見物した。大体どのグループも女子たちがぺちゃくちゃとしゃべり、男子たちが城の壁に落書きしようとして先生たちに睨まれていた。

 その中で良平は我関せず、ずっと続く右足の違和感に気を取られていた。ただ、それを気にしてる素振りを見せるとまたからかわれる。校外に出てきてまでそんな目に会うのは嫌だった。
 結局、彼は終始浮かない顔で順路を歩き終わった。



 全てのグループが見学し終わり、一行は昼食兼自由時間になった。
 息の詰まるクラスから解放され、良平は今朝の友人と弁当を食べるべく、城周辺を探し始めた。
 気候は初夏らしい陽気で、道端の芝生にも雑草がふさふさ舞っていた。しかしそれに気を取られた良平は、石でできた不均等な階段から足を踏み外してしまった。右足から滑らしたのだと思われる。




 肩からかけたカバン、臭いと言ってからかわれ続ける右足、良平の万事休すの顔、空を掴む手……全てが揺れてたとき、良平は遠足から別のどこかへ跳んでしまった。




「いてえ! だが今回は悲鳴をあげなかったぞ。元々あげてなかったけどさ」
 そういって打ち付けたはずの尻を摩ろうとして、自分のものでない体を触ったことに気が付いた。転げ落ちたときに巻き込んでしまったのだろうか、ともかく急いで飛びのき猛烈な勢いで謝る。
 しかし件の人物は何事も無かったかのようにのそりと起き上がった。よく見ればその人物、現代日本に似つかわしい格好をしている。但しそれも、この名城周辺では不思議と様になっているのだった。つまりは戦国時代の将軍そのままである。歴史上の人物が数学の教科書に載ってるような、場違い特有の奇妙さがあった。
 呆気に取られた良平が謝るのも忘れて口を開けていると、その人物はこう告げた。
「……超いてえ」
「あ、ごめんなさい」

 尻を撫でつつ、男は自分の名をイデヨシと言った。
 


「えっと、すいませんイデヨシさん。僕ちょっと足滑らせちゃってそれで」
「いいところだろ、ここ」
 イデヨシは良平の右靴を一瞥し、事情を話す彼を遮って答えた。良平は二の句が継げず、イデヨシは特に気にせず、自然どちらも沈黙してしまう。
 良平はこの男に何を言ったものかと逡巡していたが、その沈黙のうちに何かに気付いた。はっとしてぞっとした。すぐにあっと言葉が漏れた。
「なにやら少年は忙しいなあ」
「巫山戯けてる場合じゃなんですよ! ここは静かすぎるんです!」
「そりゃあそうだろう。ここは俺の庭だ。不審者お断り、ってな」
 良平はここが無人の城であることに気付き怖れを抱きつつあった。しかしそれ以上に、イデヨシの言葉には有無を言わせぬ自信があった。
「気にすることはない。道に迷ったヤロウ共が落ちてくるんだ、思春期のさ。まあ俺の庭だから合点はいくがな」
「いやでも、さっきまで僕学校のみんなと一緒で……それに思春期とか関係ないでしょう!」
「だーから大丈夫だって。直に元に戻る。しかし良いか少年。みんなの所には戻れても、思春期には戻れない。であるからしてそんなに慌てふためくわけだ。思春期に何も得られなくていいのかってな。よくか弱いとか言われないか?」
 見知らぬオッサンにいきなり説教され、かつ見知らぬオッサンに禅問答をされた良平。
「詰まる所、お前さんには……あー、もういいや。ところで少年は金を持ってないか?」
「い、いきなり少年にたかるの!?」
「落ち着くためだ。ほれ、あそこに自動販売機があるだろう」
 イデヨシの指差した方向には確かに自動販売機があった。しかしそれを将軍姿の男が指差すのはどこかちぐはぐな印象を受ける。
「俺のゼニじゃあ使えなくてな。少年なら買えるんだろ」
 口ぶりからするに、どうやら買い慣れているらしい。

 半ば観念した良平は友人から借りた500円玉を入れると、イデヨシにどれを買うのか尋ねようとした。が、ふと見上げるとイデヨシは150円するペットボトルの緑茶を連打している。結局、その緑茶が買われて良平の持ち金は350円になってしまった。
「オッサン、ちょっとは遠慮しろよ」
「何を言うか。いいか少年……時が戻っても、お前に足りないのは平常心だ。足元を辿るんだぞ。さすれば……あー、やっぱいいや」
「サッパリだ!」



 良平の叫び、何かを踏みつける右足、イデヨシの満足げな笑顔、手に持つ150円緑茶……全てが揺れたとき、良平はまた元の名城へ戻っていた。クラスメイトたちがいるはずの、名城へ。




 クラスメイトがいると書いたが、実際はまたしても無人の城に戻っていた。辺りは既に日が落ちており、昼間にあれだけ騒がしかった中学生たちの影も無い。遠足の時間もとうに過ぎ去り、先生たちは点呼を済ませてとっとと解散したのだろう。
 老夫婦たちも若い両親もその子どもも家路に着き、城に残るのは良平のみ。



 自分がいないのに、随分テキトウな点呼をしやがる、良平は平常心も忘れイライラしながら駅へと戻った。


 駅にて。良平と同じ中学校の制服を着た女子が戸惑っていた。自分のサイフを何度も確認したり逆さにしたりしているが、それも何に為るわけではない。
 傍目に見ても分かる、帰りの電車賃を、彼女も忘れてしまったのだ。カバンに刺さった木刀の群れを見る限り、はしゃいで買ってしまったのか。
 勿論良平もそれには気付いていた。しかし、彼の所持金は350円。そして電車賃は210円。貸したら自分も帰れなくなるではないか。
 泣きそうになる彼女に目もくれず、良平は券売機へ向かった。




「いいの? いつもの良平らしくない」
「いいよ。僕に必要なのは切符じゃなくて平常心だ。だから、やる」
「でもさ、私が貸したのって500円だよね。2人分買っても410円じゃない? 良平も乗れるんじゃ……」
「それがさ、ちょっとウォーキングのレクチャーを受けてね」



 目を赤く腫らした彼女を改札の反対側で見送ると、良平は右の靴をおもむろに脱ぎだした。

 そこには入っていたのは茶色く錆びた10円玉。自分の足の臭さに密かに絶望していた良平そのものである。

「思春期には戻らない、んだよな、イデヨシさん。僕は少し先へ進めると思う」
 彼はその錆びた銅貨を使って150円の緑茶を買い、名城の帰路に着いた。
 今回の遠足は長くなりそうだが、彼の心には平常がすとんと落ちてきた。






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